本文へスキップ
 
WWW を検索 本サイト内 の検索

聖書と典礼

表紙絵解説表紙絵解説一覧へ

『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年09月19日  年間第25主日  B年(緑)  
わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は……(マルコ9・37より)

キリストと子ども
象牙彫り(部分)
パリ ルーブル美術館 10世紀

 きょうの福音朗読箇所は、マルコ9章30-37節。第二の受難予告がなされるところである。この予告に対して、弟子たちの無理解(32節)が言及され、さらに弟子たちはだれがいちばん偉いかを議論する(33-34 節)。ここでイエスから、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(35節)という格言的な教えがなされる。受難の予告が弟子に対する奉仕的な生き方への召命であることがはっきりしてくる。この教えの展開は、8章31節での受難予告に続く続く箇所(38節まで)の展開と似ている先週=年間第24主日[B年]の福音朗読箇所を参照)。
 第1朗読の知恵の書(2・12、17-20)の朗読は、神の子の不名誉な死(20節参照)を主題にするところなので、イエスの受難予告を際立たせているが、福音朗読箇所の展開は、やはり弟子たちに回心と奉仕と教えを告げている部分が、我々にとっても重要であるように思われる。
 そこで重要になるのは、イエスが「一人の子供の手を取って彼ら(弟子たち)の真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」(マルコ9・36)ことばである。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。「わたし」という語の繰り返しの中に、予告されている受難に向かうイエス自身が強調されている。先週の福音朗読箇所における最初の受難予告のあとの「わたしに従いなさい」(同8・34)、「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(同8・35)に続く教えである。
 ここでも子どもは、子ども自身でもあると同時に、社会における弱者であり、あとで「小さな者」(同9・42)とも呼ばれる存在である。ここには子ども(弱者・小さい者)を受け入れることはイエス(「わたしの名」と「わたしの存在すべて」)を受け入れることであり、またイエスを受け入れることは御父を受け入れることであるということが語られている。ここでの教えは、再来週=年間第27主日[B年]の福音朗読箇所(マルコ10・2-16)の末尾に出てくる、子どもたちを抱き上げ祝福するときの教え「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(同10・15)につながっていく。
 このような教えの展開には、最も重要な掟としてあとで出てくる神への愛と隣人への愛(マルコ12・29-33⇒年間第31主日[B年]の福音朗読箇所)が根源にあることは明らかであろう。しかし、この教えに従って人間が愛を行えるかどうかは、イエスの受難の出来事を経験しなければならないということになる。受難にかってイエスを受け入れることは、神の愛を受け入れることであり、その神のみ心に従って、子ども、弱い者、小さな者に愛を行っていくことが、弟子たち、ひいては我々キリスト者の生きる道となる。
 イエスの子どもに対するかかわりを通して示された教えを味わい、子どもを祝福するイエスの姿を観賞するために、この表紙作品が選ばれている。8章の受難予告に続く教え、そして、9章2-13節のイエスの変容の出来事(そこで「これはわたしの愛する子。これに聞け」(7節)という御父の声が聞かれる)、それから主日のミサでは読まれないが、これに続く9章14-29節の「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」出来事も、子どもを抱き上げてする教え(きょう読まれる9・36-37)、子どもを抱き上げての祝福(来週読まれる10・13-16)を通して味わうことが大切だろう。
 この象牙浮彫りは、人物の姿をはっきりと浮き上がらせている。小さな大人のような子どもの姿も、しっかりと首を曲げて、子どもに向かい、大きな手で祝福しようとしているイエスの姿も、印象深い。しかし、微笑ましい光景というだけではなく、ここには、小さな者に注がれる神のいつくしみの大きさが示されている。小さな子どもは、もしかしたら、御父の前の御子イエスを象徴するものであるかもしれない。また、御父と御子キリストの協働を通して救われる我々人間すべてを象徴しているかもしれない。イエスに従って、御父のいつくしみと愛を、人々、とりわけ弱い人、貧しい人へと向けて伝えていくべき、キリスト者の使命を先取りして象徴しているのかもしれない。
 この子どものどことなく、たどたどしい歩み方のうちに、神の力にすがり、信頼しながら歩んでいくことしかできない我々の姿を見てもよいのだろう。その我々に、イエスの祝福の手は、むしろ、強い諭告と指導の力強さを示しているようである。「すべての人に仕える者になりなさい」(9・35)をも想起させる。祝福と指導が一体となったイエスの姿の前に、この子どものような信頼の心をもって立ち、歩み始めていこう。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

15 聖書の場面をイメージしましょう
 昨今の学校教育ではイメージすることをあまり体験的に教えないで、ただ読んで読解力があるかどうかを質問し、答えてもらって正解か否かで終わってしまうことが多いようです。信仰はどちらかと言えば頭より心の問題であり、生きることそのものなので、神さまを感じ、イエスさまのイメージを心に持つことがとても大切です。

景山あき子 著『子どもとミサ――愛と平和の集いのために』「Ⅲ 教会学校、あれこれくふう」本文より

このページを印刷する

バナースペース

オリエンス宗教研究所

〒156-0043
東京都世田谷区松原2-28-5

Tel 03-3322-7601
Fax 03-3325-5322
MAIL