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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年10月17日  年間第29主日  B年(緑)  
人の子は、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た(福音朗読主題句 マルコ10・45より)

十字架のキリスト  
イタリアで作られた『救い主の生涯』の挿絵 
マドリード国立図書館 13世紀

 きょうの福音朗読箇所であるマルコ10章35-45節(長い場合。短い場合は、42-45節)は、三回目の受難予告にすぐ続く箇所である。その予告は、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(マルコ10・33-34)とかなり具体的である。受難予告だけでなく、復活の予告であることが重要であろう。この予告を背景にしてのきょうの福音であることから、受難の結末にあった十字架磔刑の図が掲げられ、黙想の糧とされている。それは、朗読箇所の結び「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(同10・45)と語られるイエスの使命の成就を示す図でもあるからである。
 13世紀の多くの十字架磔刑図が、イエスの両脇にマリアと使徒ヨハネを描く(ヨハネ19・26-27参照) だけなのに対して、この挿絵の構成の中では、それ以外の要素も描き込まれている。両脇で一緒に十字架に付けられた二人の犯罪人、酸いぶどう酒を含ませた海綿をイエスの口のほうに差し出す兵士、服を分け合った兵士たち(以上は全福音書共通) 、そして、イエスの脇腹を槍で刺す兵士(ヨハネ19・34) である。案外、兵士たちが大きく描かれているのは、主の十字架の出来事が愚かな人間の罪の業であることの強調であるのかもしれない。とはいえ、イエスの姿は最も大きく強調されており、その表情も静穏である。白い体は復活の栄光を予示しているようである。使徒ヨハネ(向かって右下)はこの神秘を深く思いめぐらし、マリア(左下)は悲しみと賛美を同時に感じさせる表情としぐさをしている。マリアはすでに主イエスを礼拝し、ヨハネはこの出来事を沈思している。主の死と復活の神秘を前にしての信者(それは我々のものでもある)の多様な対応の姿をこの二人は代表しているようである。
 このような十字架のイエスとその周りにいる人々の姿を見ながら、ここでは、イエスの受難予告の中のことば「身代金」ということばを黙想してみよう。典礼文の中で、しばしば使われる「あがない(贖い)」という語が、現代日本語としてはなかなかわかりにくいものとなっているからである。日本語の「あがなう(贖う)」という動詞は、「代金を払って購入する」行為を意味する。それが奴隷を解放させるために支払う代金を意味するようになると、福音朗読箇所で「身代金」と訳されているような意味になる。そこからさらに意味は広がり、「奴隷」の状態が罪の支配への隷属という宗教的な意味にまで深められると、「あがない」は罪からの解放を意味する「贖罪」という熟語にあたる意味になる。
 さらにこれは、自分自身の罪業や犯した過ちによる加害を償うという「償い」にも近づいていき、「贖罪」は「償い」という意味でも使われるようになる。福音朗読のイエスのことばでは、前者の対価(身代金)をもって、人を罪から解放するという意味で使われ、しかも、それさえも比喩的に、イエスの自己奉献、自己犠牲による人類の罪からの解放という意味に深められている。それゆえに、イエスは「贖(あがな)い主」であり、「救い主」と同義になる。救いをもたらす、イエス自身の自己奉献をいつも考える意味で「贖(あがな)い」や「贖い主」という語が典礼文の中で重要となるのである。
 しかも、キリストのあがないのわざ、すなわち多くの人を罪から解放するための自らの命の奉献は、きわめて射程が広い。人々を罪意識の過剰さから解放するというだけではなく、もっと現実的な苦悩、苦難、困難から解放するという全人的、社会的、さらには宇宙論的な意味さえ持ち得ることでもある。そのことを思いめぐらせてくれるのがこの日の聖書朗読の配分全体である。福音朗読と第1朗読は、まず自らをささげるというテーマでつながっている。第1 朗読は、イエスの「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マルコ10・45)の背景にある、イザヤ書の預言。多くの人の身代わりとなる主の僕(しもべ)のことを謳う。この僕は「自らを償いの献げ物とした」(イザヤ53・10)、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(同11節)。我々にとっては、この僕の姿は、キリストの予告にほかならない。使徒たち、福音記者たちは、この預言を踏まえてイエスの受難と十字架の意味を受け止め、語り継いでいく。そのように主の僕であることは、すべての人に仕える者となることであるというのが、きょうの聖書朗読全体を貫くテーマのもう一つの側面である。「すべての人の僕になりなさい」(マルコ10・44)の究極の姿はまさしく十字架のイエスにある。第2 朗読のヘブライ書が記す「偉大な大祭司」(ヘブライ4・14)である。十字架での死の姿のうちに、すでに復活と栄光の主が描かれている表紙絵のキリストは、ミサにおいていつも現存し働き、「行きなさい」と我々を遣わされる大祭司キリストにほかならない。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

ある司祭の言葉
 青年時代、洗礼を受けて通っていた教会の聖堂には、等身大の大きな木彫りのご像がついた十字架がかかっていました。
 イエスの受けた苦しみが痛々しく伝わってくる十字架を前にして祈りながら、あるとき、なぜこれほどまでの苦しみを受ける必要があったのだろうという疑問がわいてきました。神の子であるお方が、私たちの罪を贖(あがな)うためには、一滴の血を流されるだけでも十分ではなかったか。なのに、これほどまでに苦しまれる必要がどこにあったのだろうかという思いでした。

中川博道 著『存在の根を探して ●イエスとともに』「9 苦しみの中のイエス」本文より

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