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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年12月12日  待降節第3主日  C年(紫)  
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる (ルカ3・16より)

洗礼者ヨハネとイエスの洗礼
モザイク
ギリシア オシオス・ルカス修道院聖堂 11世紀

 前回も考察したように、待降節の第2主日、第3主日には洗礼者ヨハネが登場する。それは、もちろん救い主の訪れを準備し予告する方として、である。東方教会では、ヨハネのことを洗礼者というよりも、前駆者といった称号で呼ぶことがメインであることにも、その意識が十分に示されている。その待降節第3主日(C年)の福音朗読箇所は、ルカ福音書3章10-18節。イエスの到来の予告が「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる」(16節)という洗礼者ヨハネのことばによって告げられる。この箇所のうち15-18節は、実はC年の主の洗礼の祝日の福音朗読箇所(ルカ3・15-16,21-22)にも一部含まれている。そこでは続いて、イエスの洗礼の実行(21-22節)が語られる。待降節第4主日から、主の降誕、神の母聖マリア、主の公現と展開する中では、マリアと幼子イエスがクローズアップされていくが、その前後の待降節第3主日と主の洗礼は、洗礼者ヨハネがイエスを示す存在としてクローズアップされる。待降節から降誕節にかけての福音朗読配分の興味深いところである。
 そのことも、念頭に置きつつ、きょうの表紙絵では、洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼を描くモザイクを掲げている。朗読本文にはまだイエスは登場していないが、「わたしより優れた方が来られる」(ルカ3・16)ということが福音(3・18参照)として告げられているところに、すでにイエスの到来、現存があかしされている。待降節第3主日が伝統的に「喜びの主日」と呼ばれ、入祭唱の「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5)と、主の到来の喜びに満たされる主日であることを思うとき、そして、C年では特にこの入祭唱の箇所を含むフィリピ書4章4-7節が第2朗読で読まれることを思うとき、きょうの福音としてイエスの姿を思うことは大切である。
 表紙絵に掲げた作品は、ギリシアのオシオス・ルカス修道院聖堂のものである。この修道院は、ギリシア中央部にあるヘリコン山の麓に、オシオス・ルカス (896 年~953 年) という修道者の創建になる。彼は、予見の賜物で知られた人物で、没後、彼への崇敬が高まり、11世紀半ばに皇帝バシリウス2世の母によって聖堂が増改築され、その際に多くのモザイクやフレスコ画で壮麗に飾られた。それらによって、磔刑のキリスト、全能のキリスト、復活のキリスト、トマスの不信、洗足、聖母子、聖霊降臨、降誕、主の奉献、主の洗礼など、キリストの生涯の諸場面が豊かな光彩のもとに展望されるところである。
 主の洗礼の場面のモザイクは、イコンにおける主の洗礼の定型的な要素がすべて登場している。洗礼者ヨハネが川の中に立つイエスに洗礼の水を注いでいる。川の水の中にみえる白髪と白髭の人物像は、川の水の神格化像である。人間に恵みをもたらすと同時に、他方では、命を脅かすこともある川の水は古来、諸民族において神格を感じ取られてきた。そのような川のシンボルもイエスの洗礼によって決定的に聖化され、聖化の力を有するものとなっていく。その聖化のプロセスが、イエスの頭上の中心線に描かれる各図象によって象徴されている。
 天上からグラデーションをもって描かれる半円の雲から突き出る右手は御父である神の象徴、そこから白い光を帯びて舞い降りてくる鳩は聖霊の象徴である。これらによって、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」(ルカ3・21-22)が十分に表される。洗礼を受けたイエスに対して衣を差し出している二位の天使を描くのもイコンと同様の定型要素である。
 主の洗礼に思いをはせつつ、もう一度、待降節第3主日としてのきょうの主題に注目しておこう。福音朗読の主題句は、「わたしたちはどうすればよいのですか」となっている。福音朗読箇所(ルカ3・10-18)の前半に三度、最初は群衆(10節)、次に徴税人(12節)、最後の兵士(14節)の問いかけとして登場する文言である。これらは洗礼者ヨハネが救い主(メシア)ではないかと思うところから、自分たちの生き方を問いかけるものとして提示されている。ヨハネはそれぞれに勧告を述べるが、本式の答えは、「わたしよも優れた方が来られる」(16節)ことに留保させているようである。そこで予告されるのは、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(同節)ということである。ここでいわれる「洗礼」とは、神の裁き、信仰の試練、イエスの受難への歩みまでを含む大きな意味のことばである。 これらをもたらす真の救い主に対して向けられるべき「わたしたちはどうすれはよいのですか」という問いは、今、キリストに対する我々の問いかけとして読まれると言ってよい。そこに待降節としての主題がある。「喜べ」には回心の呼びかけとその実現の告知がともに含まれている。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

聖 霊
 聖霊というと、とても抽象的でつかまえどころのない概念という印象がありますが、大昔の人にとって、聖霊は極めて親しみやすい具体的な存在でした。
 ヘブライ語では聖霊を、ルーアハ(ruach)と言い、動く空気、すなわち風を意味します。大昔の人は、風を袖の息と考えていました。この風は、時によっては暴風として何もかもなぎ倒していくかと思えば、猛暑にあえいでいる時に涼風を送って、人々を癒してくれます。

ミシェル・クリスチャン 著『聖書のシンボル50』本文より

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