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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年1月9日  主の洗礼 C年 (白)  
イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開けた (福音主題句 ルカ3・21より)

イエスの洗礼
イコン
ウクライナ キエフ ウクライナ国立美術館 17世紀

 主の洗礼のイコンには、5~6 世紀から定型化されてきた伝統的要素が長く踏まえられている。中央にはイエスがいる。このイコンでも水の部分は、川のイメージがあるのであろう、その流れを描写する線が細かく描き込まれている。同時に、実際の川の様子とも異なり、イエスの身を囲む、いわば光背(主の栄光を示す背後の形象)のようにもなっている。イエスの横には、洗礼者ヨハネがおり、水を注ぐしぐさでイエスの頭の上に手を伸ばしている。この出来事を見つめ、何らかの手伝いをする天使が描かれるのも伝統である。ここでは三位の天使が描かれている。一番前の天使が服を差し出しているような動作に見えるが、天使の服と一体となっているのかどうか、はたしてイエスの服をもっているかどうかは判然としない。いずれにしても天使たちの描写では、その目が実にはっきりと開かれていて、イエスの洗礼という出来事の意味に向けられているのがわかる。その強いまなざしにならって、我々もこの出来事を見つめ、味わってみたい。
 もう一つ、主の洗礼の場面で、なくてはならない図像要素は、イエスの頭上に降りてくる聖霊の形象である。このイコンでは、天から突き出し、先が三つに分かれる線のように描かれているが、その三つに分かれていく部分に、小さな鳥のような形が見える。これが、聖霊を意味する鳩を描くものなのだろう。
 イエスの体はその肉体性が強調されているが、それもそれ自体の有する光によって水の上にはっきりとした輪郭をもって示される。このような完全に人間でありつつ、聖霊の充満した神の御子である主イエス・キリストの全身像の描き方を見る上では、次のことを思い起こすことが必要である。すなわち、東方教会では、主の洗礼の出来事が主の公現(ギリシア語で「エピファニア」=顕現)の祭日で祝われる出来事であるということである。西方教会では、先週見たようにマタイ2章1-11節に描かれる東方の占星術の学者たちが幼子イエスを礼拝しに来ることを救いの普遍的現れ(公現)として記念する。それに対して東方教会では、イエスの洗礼のときから神の子であることが明らかにされて、その救い主としての活動を始めたというところを公現(エピファニア=神性の顕現)とみなして記念し祝うのである。
 このような東方教会における「主の洗礼」の位置づけを知ると、それが、今年C年の主の洗礼の朗読配分のヒントになっているように思われる。第1朗読箇所(イザヤ40・3-5,9-11)は、「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」(同40・5 )をキーフレーズとする内容、そして第2朗読箇所(テトス2・11-14、3・4-7)は主の降誕・夜半のミサでも読まれた箇所で、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(同2・11)と、冒頭で告げられるのである。
 この救いの実現としての主の洗礼の出来事の中で、その核心を示すのは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3・22)であろう。このことばを、ルカは「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」(3・21-22)という客観描写につなげて記すが、他の福音書はさまざまな導入の仕方をしている。
 マルコ1章9節は、イエスが洗礼を受けて、「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」として、イエスの経験として語る。マタイ3章16節も、やはり「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」と、それを見たのがイエスであるというふうに記す。そのあとの天からの声については、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」となっており、イエスのことを周りの人々に示すようなことばになっている。これらと比べると、ルカの客観表現は、このことばがすべての人々にも聞かれるメッセージであるという述べ方のようである。
 ちなみに、ヨハネ福音書では、イエスの洗礼は出来事としては語られない。1章29節以下、洗礼者ヨハネがイエスについて「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ…」とあかしをすることばの中で、間接的に語られるだけなのである。そこでは、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1・32)と、ヨハネが“霊”の降下を見たという語り方になっている。そして、ヨハネは、この聖霊の降下を見たので、「この方こそ神の子であると証ししたのである」(ヨハネ1・34)という関係になっている。
 このように、福音書の中でも、イエスの洗礼の出来事の述べ方は詳細に関してはさまざまであるが、霊の降下と神の子であることの証明という関係は、どこにおいても共通である。ここにおいて御父、御子、聖霊の関係がはっきりとあかしされるという点が重要なのかもしれない。それはイエス自身にとって、いかに固有のことであったかが今や万人に示されている。「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに」(奉献文の結びの栄唱)、万人は、三位一体の神の永遠のいのちの交わりへと招かれているのである。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

目に見えるしるし 信者の共同体
 ナザレのイエスは目に見えない神の見える姿でした。このイエスがキリストとして地上で弟子たちを集め、ご自分のわざを広く伝えさせたのです。受難・復活・昇天の後、見えなくなったキリストの見える姿となったのは、イエスの弟子たちの集まりすなわち教会でした。キリスト者は、キリストの見える姿であるよう洗礼によって聖霊を注がれています。キリストの見える姿であるよう励まされているキリスト者は、洗礼によっていわば秘跡となるとも言えるのです。

オリエンス宗教研究所 編『信仰を求める人とともに――キリスト教入信と典礼』「第7章 聖書による入信準備、信仰生活への導き」本文より

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