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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年1月16日  年間第2主日  (緑)  
イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行われた  (福音朗読主題句 ヨハネ2・11より)

カナの婚礼
黄金写本さし絵
スペイン マドリード エスコリアル図書館 11世紀

 きょうの福音朗読箇所ヨハネ2章1-11節はカナの婚礼の出来事を語る。表紙の写本画は(向かって)右側で2章1-7節を描く。イエスと母(ヨハネ福音書はマリアとは言わない)、召し使いとの間でやりとりがあるところである。「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった」(6節)にも描写は対応する。そしてイエスの「水がめに水をいっぱい入れなさい」(7節)という言いつけに従って(絵では一人の)召し使いが水を入れている。絵の中央はいわば8節にあたり、水がめを召し使いが宴会の世話役のもとに運んでいく場面である。そして、絵の左側は9節の前半、世話役が「ぶどう酒に変わった水の味見をした」というところを描いている。絵の右から左への移行の中で水がめの水がぶどう酒に変化した経過が写し出されている。
 カナの婚礼のエピソードは、水がぶどう酒に変えられたという不思議な出来事であるが、これを述べる叙述の中のさまざまな表現が暗に示し、その末尾で「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」(11節)と述べられているということが重要である。そこで現された栄光とは何だろうか。それは、イエスが、ヨハネ福音書の先立つ箇所であかしされている「言(ことば)」(1・1)であること、「父のふところにいる独り子である神」(1・18)であること、洗礼者ヨハネによってあかしされた「世の罪を取り除く神の小羊」(1・29;1・36も参照)であることを意味しているだろう。2章の冒頭で告げられるこの出来事が起こった時を告げる「三日目」という語も、カナの婚礼のエピソードのあとに述べられるエピソード(2・13-21「神殿から商人を追い出す」)と関連づけてみると意味深い。そこでイエスが「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(2・19)と告げるが、このこと自体復活への暗示であることが福音記者自身によって語られている(2・21-22参照)のである。
 このような「時」への関心は、ヨハネ福音書の一つの特徴である。カナの婚礼の話でも、ぶどう酒の足りなくなったことをイエスに告げる母に対して「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2・4)と言うイエスのことばが意味深い。ヨハネ福音書では、12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と言うまで、イエスはまだその時が来ていないことを繰返し告げる(7・6,8,30; 8・20)。しかし、この福音書は、明らかに、本来の「キリストの時」を出発点として据えている。それは十字架の時、「栄光」が与えられる時である。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」(ヨハネ17・1)とイエスが告げる「時」である。カナの婚礼の話は最終的に栄光が現される時に向かっていく「最初のしるし」(2・11)なのである。
 その最後の時との関連で見ると、カナの婚礼の話で登場する「母」(ヨハネにはマリアという名の言及がない)の役割が重要になってくる。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(2・5)には、イエスのことばが現実を変革し、導く力をもっていること(7節、8節)がはっきりと述べられている。ヨハネ1章の冒頭で神の「言(ことば)」として紹介され始めた、まぎれもなくその方が言うことのもつ絶対的主導力を知っているのが「母」である。ルカの福音書で、天使ガブリエルのお告げを受けたときに「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)と言ったマリアの態度がここに響き合う。そして、イエスに栄光が与えられる十字架の時、そばにたたずむ母に対して「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」」(ヨハネ19・26)と呼びかけるところとのつながりも味わい深い。
 このように、イエスがだれであるか、何をなさる方であるかについての「最初のしるし」として、カナの婚礼を考えるとき、そもそも「婚礼」「宴会」が持つ意味ももちろん重要である。「婚礼」はマタイ(22・1-14)やルカ(14・15-24)でも神の国の到来のたとえとして言及される。カナの婚礼の話でも、終末における主の来臨、神の国の完成への暗示が満ちている。そこで「ぶどう酒が足りなくなった」(ヨハネ2・3)という事実は、旧約の信仰では、神の国の祝いが完成しないことを、そして6つの水がめも旧約を暗示するという。その水がめの水がぶどう酒に変えられるということのうちに、イエスの死と復活が旧約を完全に凌駕することが予告されていると考えられる。大量の水(1メトレテスは39ℓなので、六つのかめを合わせると 500~700ℓに及ぶ)がぶどう酒に変わったというところには、神の栄光の偉大さ、神の恵みの限りなさが示されているものと考えなくてはならない。このようにカナの婚礼の叙述には、救いの歴史が一つの場面の中に圧縮されている。しかも、それが現在の我々をも包みこみ、今参加する感謝の祭儀の意味を照らし出している。 ちなみに、この絵の背景には下の部分に水色、上の部分に赤ブドウ酒色が配されている。水からぶどう酒へという変化が示す救済史的な意味を最大限味わわせてくれるのではないだろうか。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

 人間の目からすれば、奇跡は常識を外れた不思議な出来事であるが、信仰の目からすれば出来事への神の介入の″しるし″である。ヨハネが″しるし″を用いるのは、われわれが出来事の表面の不思議さに目を奪われてしまわずに、その奥にある神のメッセージにまで向かうようにと勧めたいからである。
 メシアの時代、すなわち神がその力を世界の隅々にまで行き渡らせる時代は、旧約聖書でさまざまなイメージを使って語られるが、そのひとつに祝宴のイメージがある。たとえば、イザヤ25章6-8節である。

雨宮 慧 著『主日の福音―C年』「年間第二主日」本文より

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