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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年2月20日  年間第7主日  (緑)  
敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい (ルカ6・27より)

侮辱を受けるイエス
ジェヴァンニ・カナヴェジオ作 フレスコ画  
フランス ラ・ブリーグ 
ノートルダム・デ・フォンテーヌ聖堂 15世紀

 きょうの福音朗読箇所はルカ福音書6章27-38節。その中の「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(27-28節)という教えは、我々には強烈である。そして、この“愛敵”の教えの最大の模範はイエス自身に違いない--そんな観点から「侮辱を受けるイエス」を描く15世紀の絵が表紙絵に掲げられている(ちなみに、イエスの受難に関する福音書の朗読は、典礼上、受難の主日や聖金曜日に読まれることになるため、他の主日の聖書朗読に登場することはない。それに対して、イエスの受難の歩みの数々の場面は、美術史上は非常に作品例が多い。それらをイエスの教えと関連させて、できるだけ表紙絵で紹介したいと思っている)。
 ルカ福音書に沿って、この受難の経過を見てみよう。イエスは最後の晩餐(22・7-23 )とそれに続く教え(22・24-38)のあと、オリーブ山で祈る(22・39-46)。そのあと、ユダの裏切り(22・47-53)と逮捕、それと絡み合うようにペトロの否認(22・54-62)がある。そのあとに「さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして、目隠しをして、『お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった」(22・63-64)と述べられている。この絵における目隠しされたイエスの姿は少なくともこの場面に対応しているといえよう。
 このほか、イエスが受ける侮辱については、「ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した」(23・11)という箇所もある。このような弟子の一人の裏切りから逮捕に至る過程での心境は、イエスが逮捕に向かってくる人たちに向けて告げたことば「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(ルカ22・53)の中に示されている。イエスは、まさに力を振るっている敵のもとに、自ら進んで服し、最大の侮辱としての十字架に至る。その十字架に向かうイエスの態度と心境は、まさしく「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」ということばに示されているものだろう。
 “敵を愛しなさい”とは、復讐心にとらわれやすい人間にとって実に衝撃的である。イエスの教えを代表するものとして、しばしば挙げられるのも当然だろう。6章27-30節でのことばの畳みかけ方も印象深い。「あなたがたを憎む者」に親切を、「悪口を言う者」に祝福を祈り、「あなたがたを侮辱する者」のために祈りなさい、と展開しているのである。さらに「あなたの頬を打つ者」には、もう一方の頬を向け、「上着を奪い取る者」には、下着をも拒んではならないと教えられる。我々の自然な感情とは相反し、「求める者にはだれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」となると、市民社会での行動原則とは一致しない。というより、そもそも人間社会の原則をはるかに超えたものとなっている。おそらく、このとおり実践することは難しいのかもしれない。しかし、このことばが、じっさいに憎悪や悪口や誹謗中傷、侮辱を受けて苦しむときに、慰めと解放のメッセージとなるのではないか。
 それは、これらの教えを通じてイエスが真に示そうとしていることが、ひとえに神の御心だからであろう。この教えから、我々には第一に、神の御子イエス自身の生き方の神髄が伝わってくる。神のみ旨に従って受難と十字架への道を進んで歩んでいったイエスの心、精神、姿勢そのものが打ち明けられ、それに弟子たちが従うようにと、具体例が示されているのであろう。根底には、神のまなざしの方向から、この世を見つめ、その中で生きなさい、というメッセージがある。
 そして、それは人から悪を受けたときに同じ悪をもって返すという行動原理をも超え出る道である。国際社会をこれまで大きく動かしてきた利権争い、ひいては戦争の論理も含まれる。そのような行動原理が支配する地上世界の真っ只中に生きつつ、神のみ心から出発し、その愛の掟を踏まえて、すべての物事や人間関係を見ていくとき、イエスが呼びかけるような行動への道も開かれていくのだろう。報復や復讐の連鎖を乗り越えていく勇気がこのメッセージから奮い起こされ、支えられる。この教えを告げ、率先して歩むイエスに従うとき、我々はこの世にありつつ、神の国のあかしとなれるのであろう。
 このように考えていくと、この絵の中で侮辱を受けているイエスの、目隠しをされている姿がとても味わい深い。侮辱行為をする人々の世界に対してイエスの目は開かれず、隠されている目はただ神の国、神の次元にのみ向けられているに違いない。ここに座すイエスの姿のうちに神の国とこの世が交差している。暴力を受けながらも、その姿は静謐であり、内側からの輝きさえも感じられる。それは、まさしく「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)というメッセージを体現しているだろう。その究極の姿は、言うまでもなく、十字架にある。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

良心的徴兵拒否
 
(大日本帝国憲法の)「臣民タルノ義務」の最たるものが第二〇条の「兵役ノ義務」である。矢部による召集不応までは、この第二八条の前半と後半との矛盾はそれほど顕在化しなかった。ところが、日露戦争の開戦の結果、絶対非戦論を唱えた内村鑑三の思想を受けた青年たちのなかに、いずれを優先すべきか迷う者が出たり、聖書の教えを厳しく守ろうとする矢部のような青年が出て、日本は、初めて良心的兵役拒否の問題に直面したのである。

鈴木範久 著『信教自由の事件史――日本のキリスト教をめぐって』「13章 矢部喜好の兵役拒否」本文より

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