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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年2月27日 年間第8主日 C年 (緑)  
まず自分の目から丸太を取り除け (ルカ6・42より)

キリスト 
フレスコ画(部分)
ローマ サンティ・ピエトロ・エ・マルチェリーノのカタコンベ
4世紀末

 4世紀初め、ディオクレティアヌス帝の大迫害(303 -311 年)のときにローマで殉教したペトルスとマルケリヌスにちなむカタコンベ(地下墓所)の壁画である。この二人はローマではすべてのカタコンベの守護者としても崇敬される。直接に二人の名を冠するカタコンベのこの壁画部分では、キリストがペトロとパウロの間に描かれている。そのほかの使徒たちにも囲まれている。その中にいるイエスの姿は、眼光鋭く、威厳に満ちている。使徒に使命を授けた主と、その周りで従う使徒たちの姿を示すことで、教会、とりわけローマ教会の姿を映し出している絵柄である。
 初期キリスト教美術においては、キリストを表現するために、牧者像か、教師像といった当時の一般社会の中でも敬われた存在を描く図像をパターンが用いられていた。おそらくこの壁画のキリスト像は、教師像の発展ではないかと思われる。あまりはっきりしないが、左手で巻物を抱えていて、右手が主としての権能を示しつつ祝福を送るしぐさになっている。イコンのキリスト像の原型ともいえる。
 この威厳ある姿とともにきょうの福音を味わってみよう。福音朗読箇所はルカ福音書6章39-45節。神のみ心をあかしするイエスの短い三つの説教が組み合わさったものである。それぞれ、具体的イメージに富んでいる。なかでも、他人のおが屑を取れと言っていながら、自分の目の中にある丸太には気づかない、という教えには、皮肉とユーモアが混じっており、印象深い。これらを通じて、イエスに従う弟子としての生き方が説き明かされている。とても高い要求がなされているようでもあるが、言っていることは明快であり、自分たちの心のあり方と、そして言葉での表し方に向かっている。
 全体として、人を裁くのではなく、まず自分の心を顧みなさいという教えのようであるが、きょうの聖書朗読配分全体を見るともう一つの主題が見えてくる。きょうの第1朗読箇所(シラ27・4-7)の末尾「心の思いは話を聞けば分かる。話を聞かないうちは、人を褒めてはいけない。言葉こそ人を判断する試金石であるから」(6節後半と7節)という格言的な教えと、福音朗読箇所の末尾「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(ルカ6・45)を見ると、我々の言葉、言動というものが主題になっていることがわかる。良い心から良い言葉の実は生まれる。心の思いが表れる言葉を通して、人は判断しなくてはならない。おが屑と丸太の話をここに関連させるならば、人を裁くような言葉を出す前に、そのように発言しようとしている自分の中で、良い心が良い言葉になって表れているかを気づかなくてはならない、ということだろう。人々や物事を偏り見てしまう、目の中の“丸太”が我々のうちにはあるのではないか。自分の心が“丸太”に邪魔されたまま人を裁くような言葉を発してはいないか……こんな問いかけが迫ってくる。
 今日のインターネット社会、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS )が普及している社会に生きる我々にとって、この教えは、きわめて切実なものに感じられる。心に思いついたらすぐ書き込み、発信できるシステムのおかげで便利になった反面、そのシステムのせいで心を傷つけ合っている社会でもあるからである。さまざまなコメントや意見が表される場が生まれている中で、どのような言葉を信頼し、人の言葉にどのように反応し、自らの言葉に慎みと節度をもって、確かな言葉を発していったらよいのか。そのような迷いや戸惑いや、場合によっては傷や苦悩の中に、よりいっそう置かれるようになった我々に、きょうの福音は、明確に神のまなざしを示してくれる。人類社会とともに、存在する心と言葉の一致、良い心からの良い言葉を求める思いと、それに相反する状況の多い事実が、聖書において洞察され、正しい道が求められている。今、イエスは、このような中で、現代の我々にとっての光をもたらしてくれている。
 表紙絵のイエスの、主としての尊厳と威厳をもった姿のうちに、その言葉の力強さ、神の導きの体現者であることを見つめてみよう。自らが神のことばであるイエスは、使徒たちにも、神の権威を授け、神のメッセージの発信、福音の告知を託している。その心を、きょうのアレルヤ唱(フィリピ2・16a +15b )がいみじくも示している。「あなたがたはいのちのことばを保って、ともしびのように世を照らしなさい」と。きょうの教えを加味して福音宣教とは何かを考えると、それは、神のことばを伝えるというより、それ以前に、自分の心の中を吟味し、目の中にある丸太に気づき、心の清めを聖霊に願いつつ、「いのちのことば」とは何かを問いかけながら、発信していくことにあるのではないだろうか。それは祈りにほかならない。神の救いの計画への信頼、神への賛美と感謝と信頼をもって祈り続けること、そして、その祈りをもって、人々を神の御前に招き、ともに礼拝者となっていくところに、福音宣教の神髄があるのではないか。神のみ心を映し出す表紙絵に描かれる主は、今、ミサを通して我々を招き、我々を福音の使者として派遣する方にほかならない。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

福音宣言者のモデル
 
主はご自分を現し、パウロに尋ねる。「なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録9・4)。なぜ? それこそ、ほかならぬパウロ自身が最も知りたかったことだ。なぜ自分はこれほどにも彼らの宣言に過剰反応しなければならないのだろう。それは、実は律法への忠誠心であるとか神への冒涜を許せないとかいう以前に、不完全なる人間のことば、人間の掟、人間のカを絶対化するという、不完全なる人間の世界内で完全さを求める営みが必然的に行きつく反応であり、それこそが罪の本質なのである。

晴佐久昌英 著『福音宣言』「第8章 パウロは宣言する」本文より

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