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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年3月2日  灰の水曜日  (紫)  
隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい  (マタイ6・6より)

オランス(祈る人)
フレスコ画(部分)
ローマ プリスキラのカタコンベ 3世紀

 手を広げて高く掲げ、天にまなざしを向けた「祈る人=オランス」の図を、祈る心についての教えを含むきょうの「灰の水曜日」の絵として掲げることにした。
 「良い羊飼い」などと並んでキリスト教美術初期の代表的テーマの一つである「祈る人」は、古代ローマの美術の中で「敬虔」を擬人化する図にも見られたものという。それがキリスト教美術に取り入れられたときに、死者のための祈りと結びつき、そのために石棺彫刻や地下墓所であったカタコンベの壁画に数多く描かれるようになった。死者の肖像をこのオランスの型に託し、名前を書き添えることもあったという。
 この画題のキリスト教的意味については、さまざまな解釈がある。地下墓所や石棺に描かれた点から復活を待ち望む死者の魂を描いたとするもの、すでに楽園に招かれた死者が神に賛美と感謝をささげている図とするもの、すでに安息のもとにいる死者が新しい死者のために取り次ぎの祈りをしている姿とするものなどである。両手を上げて祈る人の顔が天に向けられている場合、神に向かう祈りの方向性が強く感じられよう。この絵の場合、その上を見る眼差し、掲げる両手もとても力強い。男性女性を超えた祈る人の姿に感じられる。このように、オランスは、描かれる動機としては、死者の祈り、死者のための祈りを主題としようという意図が強かったかもしれないが、その姿のうちに、もっと普遍的な「祈る教会」の姿を見ることができ、そのように味わうことで、古代から続く教会の生命力を感じることができる。
 さて、四旬節が始まる「灰の水曜日」の福音朗読箇所はマタイ6章1-6、16-18節。全文が、心からの施し、祈り、断食を求めるイエスの説教である。この中で「偽善者」という語が三回も登場する。この語に、「俳優」という意味があることがしばしば解説される。その意味については、同じ語が出てくるマタイ福音書15章7-8節を見るとよくわかる。「偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」--イザヤ書29章13節に基づく教えである。これと同じ趣旨のことが、きょうの第1朗読箇所(ヨエル2・12-18)の冒頭でも告げられる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を引き裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」(ヨエル2・12-13)と。
 ここに、きょうの聖書朗読の一貫したメッセージが示されている。イエスは、「偽善者たち」とは「人からほめられようと」(マタイ6・2)とし、「人に見てもらおうと」(6・5、16)する人であること、それに対して、イエスの弟子は、施しも、祈りも、断食も人に気づかれず、「隠れたことを見ておられる父」(6・4、6、18)の御前で行うようにということを、再三告げる。このような教えは、我々にとって高すぎる要求なのであろうか。あるいは、キリスト者として当然のものなのであろうか。“口で言うこと”と“心で思うこと”の一致こそ、人間にとって、もっとも難しいことなのではないだろか。心から祈り、誠実に行動できるためには、そのことのためにこそ、やはり祈りが必要なのではないだろうか。
 ここでふと思い出されるのは、使徒パウロのローマへの手紙10章8-10節である。「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある』。これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなた+は救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(今年C年の四旬節1主日の第2朗読箇所に含まれている)。すなわち、我々の心と口の一致も、我々の回心も、それがほんとうに実現するのは、イエスの死と復活を信じ、イエスが主であると信仰宣言するときである、ということになる。マタイ6章における、施し、祈り、断食についてのイエスの教えは、究極的には、自らの死と復活の神秘に向かっているというところが、灰の水曜日のミサにとっても重要であろう。
 このように、きょうのイエスの教えは、我々が偽善者のようではないかと戒められているように受け取れてしまうかもしれないが、根底には、あくまで、我々が人知れず苦しんでいることや思っていることを、なにもかも、たえず神は見ていてくださっているという、いつくしみあふれるメッセーである。だからこそ、誠実な“心を引き裂く”回心は、たちまち神に受け入れられるのだろう。
 きょうの第2朗読箇所(二コリント5・20~6・2)にある、「神と和解せさていただきなさい」という呼びかけも、イエス・キリストによって「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(同6・2)であるという確信があるからである。この呼びかけを受けて祈る神の民の姿を「オランス」とともに味わってみよう。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

今こそ、心からわたしに立ち帰れ
 
本日の福音は、マタイ福音書の山上の垂訓(山上の説教、5~7章)から取られており、善い行為とは正しい意図をもって行うことだ、と教えている。

和田幹男 著『主日の聖書を読む――典礼暦に沿って【C年】』「灰の水曜日」本文より

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