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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年3月27日  四旬節第4主日 C年 (紫)  
父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した (ルカ15・20より)

放蕩息子の帰宅
木版画 クリスティアン・ロールフス
ドイツ シュトゥットガルト国立図書館 1916年

 きょうの福音朗読箇所はルカ福音書15章1-3節、11-32節。”「放蕩息子」のたとえ”という新共同訳の表題があり、そのように呼ばれることの多い場面である。
 この話を描く絵に関して、キリスト教美術を少し調べてみると、意外なことに気づかされる。それは、初期のものには、ほとんど描かれていることがなく、東方ではようやく11世紀後半の福音書写本になってこの話の場面を連続的に描くという作例に出会う。12世紀の写本挿絵では、ルカ福音書には実際に触れられていない兄弟の和解までも想像して描いているものがあるという。13、14世紀の絵では、帰ってきた息子を迎える父親をキリストとして描く例もある。
 西方でこの話の図像が登場するのは12~13世紀、特にフランスのオセール、ブールジュ、シャルトルなどの聖堂のステンドグラスにみられるが、作品例は多くない。頻繁に描かれるようになるのは中世末期以降で、デューラーの銅版画 (1496年) は、しばしば個人的な黙想や礼拝で使われた。バロック期にはこのたとえ話のもつ劇的な感動を写実的に描くものが増え、イタリア絵画では、身をかがめて息子を迎える父親の姿が強調され、しばしば息子は洗礼のときの白衣を着て描かれたという。そして、17世紀に至るフランドルの絵画では、レンブラントの線描画(1636年)に代表されるように父と息子との間に交わされる感情をより人間的、劇的に描く方向になる。そして、20世紀初頭、特にドイツの画家が比較的多く、この題材を取り上げている点は注目される。表紙絵作品もその一つである。
 作者クリスティアン・ロールフス(生没年1849~1938)はドイツの画家。ワイマールの美術学校で学んだが、画家として地位を確立し認められたのは50歳になってからで、1906年、20世紀の宗教芸術に新境地を開くことになるノルデ(1867-1956) と出会い、その影響のもと聖書に題材をとった絵画を描くようになったという。この絵では、裸になってやせ細った息子を迎える父親が、息子に駆けより、手を伸ばしている様子がなによりも印象的である。近代的な写実とは違う、デフォルメした体と表情を通して、かえって父親と息子の心をさまざまに想像させる。とくに目のあたりの描き方が示唆に富んでいる。
 ところで、日本では「放蕩息子」のたとえと呼ばれることが多いこの話、ドイツ語では(直訳すると)「失われた息子」のたとえといわれる。実はルカ福音書15章は、最初に”「見失った羊」のたとえ”(ルカ15・4-7。表題は新共同訳により、同15・1から含まれている)、次に”「無くした銀貨」のたとえ”(同15・8-10)がくる。その流れからみると、この“放蕩息子”のたとえも、父親のことば「いなくなったのに見つかったからだ」(同15・24)、「いなくなったのに見つかったのだ」(同15・32)を基準に考えると”「いなくなった息子」のたとえ”ということになる。そのほうが15章全体のイエスのたとえ話として一貫した主題を浮かび上がらせることになる。ちなみに、最新の日本語訳聖書である2018年出版の「聖書 日本聖書協会共同訳」では、まさしく”「いなくなった息子」のたとえ”という表題を付けている。たとえの主題としてはこの表題がふさわしいが、いずれにしても息子自身は「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」(ルカ15・13)のであるから、イメージしやすいことは確かかもしれない。
 さまざまな示唆に富む、このたとえからは、放蕩の限りを尽くして、すべてを失ったのち、神に対しても父親に対しも「罪を犯しました」(同15・18、21)と告白する弟を迎える父親の態度が感動的である。「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(同15・20)--この劇的な父親の行動の様は、表紙絵からも窺われよう。この話を通して、回心する者を喜んで受け入れる父である神の姿を物語るイエス自身も、父と同じ心であふれていたことは、「憐れに思い」という、たとえを通してイエスが求めている態度(ルカ10・33など参照;マタイ18・27 )、そしてイエス自身の心(ルカ7・13参照。ほかにマタイ9・36;マタイ14・14=マルコ6 ・34;マタイ20・34)を表すキーワードからわかる。そして、息子(弟)を迎えた父親は最大の歓迎の祝宴を命じるが、この息子の帰還を「死んでいたのに生き返り」(ルカ15・24)、「死んでいたのに生き返った」(同15・32)と呼ぶほどに、回心は死からいのちへの転換というほどの大きな意味をもっていることになる。
 このように、放蕩息子のたとえは、まずは回心の大切さについての教訓であるが、それ以上に神が真のいのちを与えてくれる方であることと、この真のいのちへの道を諭している。盛大な祝宴のイメージは、感謝の祭儀(ミサ)、ひいては、永遠のいのちに生きる神の子らの共同体(天上の教会、聖徒の交わり)への示唆も豊かに含んでいる。まさしく神の知恵に満ちた教えがある。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

限りない慈愛の父
 イエスが口にする「天の父」という名称は、父母がわが子に示すほとんど無条件とも言える慈愛、自分を与え尽くして顧みない、俗に「親バカ」と言われる愚かなまでの愛に通じることばです。福音書と呼ばれるイエスのことばと行いをまとめた一人であるルカが、イエスが話したと伝えているあの「放蕩息子(ほうとうむすこ)のたとえ話(ルカ15・31-32参照)の父の姿ほど、人々の感動を呼び起こすものはないでしょう。そしてイエスは、この父こそ罪深い人々をも限りなく愛している神、「天におられる父」のたとえとして示しています。 

オリエンス宗教研究所 編『キリスト教入門――生きていくために』「第4講 イエスは父である神を示す」本文より

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