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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年4月3日  四旬節第5主日 C年 (紫)  
罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい (ヨハネ8・7より)

イエスと姦通の女
エグベルト朗読福音書
ドイツ トリール市立図書館 980 年頃

 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8・7)――このイエスのことばが鋭く突き刺さるきょうの福音朗読箇所(ヨハネ8・1-11)である。
 姦通の女を巡るこのエピソードは、9世紀頃から比較的多く描かれるようになるという。イエスが女に向かって「行きなさい」(8・11)と解放を告げるところに焦点を当てる作品ももちろんあるが、表紙絵のエグベルト朗読福音書挿絵は、イエスが地面に何かを書いていたという行為(8・6)に注目を寄せている点がユニークである。(向かって)右側には、イエスのことばを「聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」と述べられる、ファリサイ派や律法学者の人々が描かれている。つまり、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(8・7)という決定的なことばの前後の動きを描くことで、逆に、そのメッセージを浮き彫りにしているのである。なによりも、中央に描かれる女の姿が、そのイエスのことばを全面的に受け止めている姿勢をもって、そのメッセージを体現しているともいえる。さりげなく、それでいて非常に深く考えられた構図であるといえよう。
 もちろん、イエスの描き方も凝っている。まず、福音書の叙述からは出てこない、高貴な座にいるという点。それは、裁き主でもあり、救い主でもある主キリストの尊厳に満ちている。しかし、イエスは、君臨するように座するのではなく、人々からは目を逸らし、深く体を曲げて、地面に文字を書こうとしている。女に対しても、女をとがめる人々に対しても、上から神の裁きを告げるというようなかたちでイエスは何かを告げるのではない。
 ところで、ヨハネ福音書では、「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」(8・6)と記しつつも、何を描いたかについては何も語っていない。それに対して表紙絵は、地面に書かれた文字まで解釈して記している。「地が地を訴える」(terra terram accusat)である。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と告げるイエスの真意を解釈した例に倣うものなのだろう。罪を有する者が罪の女を訴えていることに対する皮肉であろうか。
 しかし、「地」という語がとても意味深い。地は一般に、人間の世界、有限な被造物の世界を表示する。したがって、地が地を訴えるに過ぎない状況を人々に目の当たりにさせているともいえる。しかし、これは、単に、訴えたファリサイ派や律法学者の一般的な問題として、人を裁こうとする人の態度をとがめるものではないだろう。イエスのことばには、人間が死すべき定めの中にある存在であることの自覚、罪に脅かされる存在であることの自覚への呼びかけが含まれているようである。それは同時に、すべてを超えてすべてを造り、すべてを導かれる神に目覚めよとの呼びかけでもある。身をかがめたイエスの背中が訴えているものは大きく、深い。その背後に、暁の色のように広がる空間は、天にある父なる神に向かってどこまでも開かれている。
 神の御子が地上に生まれたことにより、地に生きる人間は神に向かってはっきりと導かれるものとされている。その御子が、地上における受難を通して復活し、神の永遠のいのちの扉をすべての人のために決定的に開いている。姦通の女のエピソードにおいてそのような主の過越の神秘、人類の罪からの解放のみわざが予示されている。そのことを示すイエスのことばは力強い。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8・11)。このことばに第1朗読(イザヤ43・16-21)の中の主のことば「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」(43・19)が重なるように響く。神のことばは、人を罪の定めから解放し、「新しい」生き方へと出発させる。「行きなさい」(8・11)ということばは、我々のミサの派遣のときのことば、「行きましょう」(直訳は「(あなたがたは)行きなさい」と一致する。キリストは「行きなさい」と我々に今もいつも「告げている」。我々は、それにこたえて、第2朗読(フィリピ3・8-14)のフィリピ書が述べるように、自分たちも「何とかして死者の中からの復活に達したい」(3・11)と、「目標を目指してひたすら走ること」(3・14)を望むのみであろう。罪のゆるしと派遣のことばをしっかりと受けとめる女の姿は、紛れもなく教会の、我々の姿でもある。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

石打ちにされる女 ヨハネ8章2⁻11節
 ファリサイ派の人たちは、あらゆる機会をとらえてイエスの人気を失墜(しっつい)させようと企てるのですが、ここでもイエスをジレンマに陥れようと謀(はか)ります。イエスが「石を投げるな」と言えば、モーセの律法に背いたと訴えることができますし、「石を投げろ」と言えば、イエスの説く愛の教えは口先だけのものだと、人々の前で笑いものにすることができるのです。
 イエスは、彼らの度重なるこうした策略に対して、すぐに返事をする気にはならなかったのでしょう。 

オリエンス宗教研究所 編『聖書入門―四福音書を読む』「第7講 イエスに出会った人々 あなたの罪はゆるされた」本文より

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