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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年6月26日  年間第13主日 C年 (緑)  
あなたがたは、自由を得るために召し出された(第2朗読主題句 ガラテヤ5・13より)

囚われのパウロ
石棺彫刻 
ローマ サン・セバスチアノ教会 4世紀半ば

 きょうの第2朗読箇所ガラテヤ書5章1、13-18節を踏まえ、「自由」ということばをキーワードにして語るパウロのことばを黙想する意味で、囚われのパウロを描く古代教会の石棺彫刻を観賞する。
 もとより、描かれているのは、パウロが捕縛され連行されるという彼の宣教人生の一幕である。しかし、そこでの捕縛という出来事は、自由か隷属かというパウロの信仰論の主題にも示唆を与えるように感じられる。朗読箇所で語られているのは、贖(あがな)いが意味するものである。パウロは明確にそれを、キリストによって我々は自由を得させられたこと、自由の身にされたこととして語る。この自由とは、その後の文脈からいうと、肉に隷属しないこと、霊の導きに従う者となっているということである。ここで霊と対比される「肉」の意味合いは、深く、広い。肉の欲望、肉の望むところとは霊と反するもの、霊と対立するものという意味で、神に反すること全般を意味していると思われる。
 自由は、パウロによれば、一方では、霊に従うことになるか、肉の欲望のままになるかを選ぶことのできる人間の意志の自由を意味するようである。それゆえに「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5・13)と勧告している。他方で、自由は、神の導き、霊の導きに従っている状態、神の子としての自由を意味していると理解できるところもある。それは自己の自由を外から制限しようとするような一切の力に対する自由、自分自身の中にある肉の欲望からも自由であることを意味するのだろう。総じて、あらゆる意味で何かにとらわれている状態からの自由という意味で、「自由」ということばは「解放」という側面をもちつつ、霊的な意味での深い意味を含むことになる。近現代社会の中で、人間の本質的な権利(基本的な人権)として語られる「自由」という語が、2000年前の教会において、これほどに重みをもっているということに、あらためて驚かされる。
 さて、年間主日の聖書配分では、福音朗読箇所の中心的メッセージを明確化させるヒントとなるのが第1朗読(旧約朗読)である。そこにどのようテーマが照らしだされているか、見てみよう。明らかに「従う」がキーワードとなっている。福音朗読箇所はルカ9章51-62節、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9・51)と、エルサレムへの旅の始まりが記される。それは、この箇所と同じルカ9章の前のほうに2回受難予告があることからもわかる(最初の受難予告=ルカ9・21-22、2回目の受難予告=同9・44)。この十字架の道を進むにあたり、弟子たちに覚悟を求めるための教えがずっと続いていく。「わたしに従いなさい」(同9・59)ということばはその象徴である。これは、言い換えれば「神の国にふさわしく」ありなさい、という教えでもある(同9・62 参照)。このイエスの弟子に求められる関係の旧約におけるしるし(予型)として第1 朗読では、列王記上19章16b 、19-21節が読まれる。エリシャが「エリヤに従い、彼に仕えた」(列王記上19・21)という経緯が物語られるところである。
 さて、本来、年間主日における第2朗読の使徒書は「準継続朗読」と呼ばれ、数週間、一つの手紙の主な部分を叙述順に朗読していくという方式がとられる。C年の場合、元来は年間第9主日から第14主日までがガラテヤ書の朗読となっており、今年はそのうち、きょうの年間第13主日と来週の第14主日がガラテヤ書を朗読する主日となっている。このような年間主日の配分法においては、直接には福音朗読と第一朗読をつなぐテーマが第2 朗読で初めから意識されているわけではない。しかし、信仰の書であるかぎり、必ず、福音、第1朗読を通して(ときには答唱詩編を通して)浮かび上がってくるメッセージに関連するものが必ず何かは見つかるものである。
 きょうに関しては、ガラテヤ書も、主に従う、神に従うというテーマを巡って受けとめるのが有意義な箇所である。「愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5・13)、「隣人を自分のように愛しなさい」(同14節)、「霊の導きに従って歩みなさい」(同16節)という明確な勧告のことばによって、究極的には、キリストに従う生き方、神のみ旨に従う生き方が示されている。パウロのことばが一見抽象的であるときでも、そこで考えられているのはつねにイエス・キリストであるということを考えなくてはならない。きょうの箇所でいえば、冒頭の「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」(同5・1)がすべての根底にある。キリストによって生きる、キリストとともに生きるということが、愛の奉仕、隣人愛として告げられており、霊の導きに従うとは、つまり、イエス自身がその十字架への道において示してくれたことにほかならない。
 石棺彫刻の中の囚われ人パウロは、自らの命運のうちに、イエスの受難の道を味わっているであろう。逮捕されている状態で描かれるパウロは、自らの姿を通して、主イエス・キリストを指し示している。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

宗教自由論
 『日本における宗教自由』のなかで、まず森は、宗教の自由を人間にとり天賦の権利であるとともに文明を進歩させる基本的要素とみる。ついで日本の現状には、この神聖な権利の認識の痕跡がまったくないと嘆く。それどころか政府の手で「一つの新しい宗教(a new religion)」を作り出すという奇異なことが行われているとみる。しかし、自然の美しさが、その豊かさと多彩にあるように、さまざまな宗教の勢ぞろいこそ大切とする。日本におけるキリスト教に対する主要な反対論をあげ、いずれも根拠のないものとして退ける。また国家による宗教の自由の保障と、すべての宗教に対する公平な扱いを提言している。それを実効化するために教育の必要を説くが、その教育における宗教の関与には反対している。

鈴木範久 著『信教自由の事件史』2章 森有礼の「宗教自由論」本文より

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