2022年7月17日 年間第16主日 C年 (緑) |
必要なことはただ一つだけである (ルカ10・42より) マリアとマルタの家のキリスト ケルンで作られた朗読福音書 ベルギー ブリュッセル王立図書館 13世紀 きょうの福音朗読箇所ルカ10章38-42節は、マリアとマルタの話で印象深い。短いエピソードのなかで、イエスのことばを聞くことと、世話をするために思い悩み、心を乱すこととの対比が意識化され、マリアが選んだものとして、イエスのことばを聞くことがより良いことだとの導きが示される。 表紙絵の朗読福音書挿絵は、この出来事を二つの場面で描き出す。感覚としては、日本の絵巻物、漫画、アニメにも近いものがある。上段では、マルタとマリアの姉妹がイエスを迎えるところ、そして、下段では、マルタとイエスの対話の場面である。 上段の描き方を福音書の叙述と比べながら見てみよう。「イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた」(ルカ10・38-39)。迎え入れたのはマルタであり、マリアはその姉妹として紹介されるという流れである。絵を見ると、イエスの真正面に立っているのは、下の絵との比較からマリアであることがわかる。マルタはその後ろにいるが、それでも、イエスを家の中に誘うようなしぐさをしている。確かにそれは「マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」ことを表しているといえる。しかし、その前に、マリアを配置し、イエスの到来、その祝福(イエスの右手のしぐさ)を全面的に受け入れる姿勢にして描いているのは、この話の結末を既に先取りしたものなのだろう。 「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(ルカ10・39)というところは、下段の絵の真ん中にいるマリアの様子に反映されている。その後ろのいるマルタは、家の中で働くときの装いとなっていて,左手には水の壺を抱えている。ベールまで外している。そうした変化の描写はきわめて珍しい。 面白いことに、マルタのセリフはマリアが抱える帯に描かれた文字として記されている。漫画の吹き出しの発想に近い。マルタのセリフは、「手伝ってくれるように(マリアに)おっしゃってください」(10・40)の部分である。このセリフを前提にマルタの表情を見ると、なにか、いきり立っているようである。このマルタのことばにイエスは答えて言う。41節のイエスのことばの前半は、「マルタ、マルタ……」とマルタを諭す内容である。こうしたイエスの態度は、絵からも読み取れる。イエスの眼差しは、たしかに多少上のほうに(そしてマルタに)向かっているようなのである。帯に記されているイエスのことばは「マリアは良い方を選んだ」(42節)である。このことばは、マリアの態度を称賛するものなので、マリアに対して褒めことばとして告げられていると思ってしまうが、実は、マルタに対する諭しの中のことばであることが、絵と対照させながら読むと確認できる。 絵においても、マリアの姿はイエスのもっとも近くにあり、家の前の出迎えの場面、そして、イエスのことばに座って聞き入るという場面でも、静かな雰囲気で描かれている。とはいえ、このエピソードの中で、動きや態度の変化、さらに絵では装いの変化まで見せているのが、イエスとのことばのやりとりでも目立つマルタなのである。イエスの注意を受けながらも、その中で大切な教えが語られるきっかけとなっているのは、マルタである。福音書の叙述からも絵からもマルタの存在、イエスとのやりとりが深く印象づけられる。このようなところをみると、イエスとペトロのやりとり(ペトロの離反の予告=ルカ22・31-34、復活したイエスとペトロの対話=ヨハネ21・15-19)、そしてイエスとトマスのやりとり(ヨハネ20・24-29)を思い起こさせないだろうか。一見、イエスに対して信仰が不十分な態度を戒められたり、諭されたりとする人々が、信仰について最も大切なことが示されるきっかけとなっているのである。マリアの態度が際立つのも、かいがいしく動き回るマルタによってであり、ある意味で、マルタも立派に信仰のあかし人といえるのではないだろうか。 このエピソードの叙述を、教訓話として読むと、マリアの模範的な態度が真っ先に伝えられることになるが、マルタとの間に交わされるイエスのむしろ格別の親しみ、もしかしたら愛情のようなものさえ感じてもよいのではないだろうか。大事なことに最初は気づけないでいる弟子たち、従うことのできなかった人々の表情をも、よく記憶にとどめている福音書のさまざまなエピソードである。マルタがこのイエスとの出会いとかかわりののち、どのように生きていったか、思いを巡らしてみることも有意義だろう。それは、我々自身のイエスとのかかわり方に対する深い省察のきっかけとなるのではないだろうか。 |