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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年7月31日  年間第18主日 C年 (緑)  
上にあるものを求めよ。そこには、キリストがおられる  (第二朗読主題句 コロサイ3・1より) 

全能者キリスト
イコン
ウクライナ キーウ国立美術館 18世紀

 かつて美術史の本では、イコンに関して、ビザンティン・イコンかロシア・イコンかをタイトルで表示する書物が多くあり、その中でロシア・イコンの作例としてウクライナの教会のものもキーウ(旧表記キエフ)国立美術館所蔵のイコンとして紹介されていた。歴史的系譜としては、ロシア系イコンとなるのかもしれないが、この「全能者キリスト」は、ウクライナの教会のものである。この作品は、近代18世紀のもの、テンペラ画ではなく、彩色レリーフ型のイコンといえるだろう。キリストの衣装にこの地域の民族的伝統が反映しているようである。左手に抱える書、そして右手のしぐさは祝福のしるしという全能者キリストの定型に則っている。
 さて、きょうの福音朗読箇所(ルカ12・13-21)は「お前が用意した物は、いったんだれのものになるのか」(ルカ12・20)が(朗読配分上の)主題句とされている。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」(ルカ12・15)という直言メッセージもあり、富への囚われ、貪欲が戒められるところである。この福音を照らし出す第1朗読の旧約聖書箇所はコヘレト1章2節、2章21-23節。「なんという空しさ、なんとう空しさ、すべては空しい」(コヘレト1・2)という印象深い箇所で、人間の労苦の空しさを悟り、そのことを訴える文言であるが、根本には神のみが真実であり、神を畏れることを教える内容である。
 福音朗読箇所の教えで、富への執着や貪欲への戒めが表で語られているにしても、その根底にあるメッセージは、人が用意するもの、作り出すもの、ひいては生きていること自体は「いったいだれのものになるのか」(ルカ12・20)という問いかけにある。そして、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(21節)、すなわち「お前の命は取り上げられる」(20節)という命運が予告される。こうして、富に執着せずに、ひたすら神の前に生きること、そして、神の前で豊かになる生き方を選ぶようにというメッセージが前面に出てくる。イエスの弟子となることへの召命、招きの教えである。
 このような主題を念頭において、第2朗読箇所(コロサイ3・1-5、9-11)をみるとき、その教えはもっと教会的に語られている。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座についておられます」(1節)。「上にあるものを求める」という生き方への招きである。「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(2節)。そして、5節では、地上的なもの、「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい」と具体的な捨て去るべきものがあげられていく。これだけを挙げれば、否定的、禁止的教えに響くが、その根底にある真実の生き方についても、しっかりとことばが与えられている。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(10節)。
 この場合の造り主の姿とは、神の右の座に着いておられるキリストの姿そのものである。コロサイ書、キリストを信じる者たちが、「キリストと共に栄光に包まれて現れる」時が来ることを確約し、告知している(14節)。このようにキリストに倣い、キリストとともに新しい人になるということは、さらに、民族、宗教、社会身分など、人を隔てる区別を一切超越するものであるというメッセージが続く(11節)。キリストと結ばれるということは、これほどに倫理的な意味での生き方の転換と同時に、社会的な区別(おそらくはそこに起因する偏見や差別)をも乗り越えることを意味している。
 「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(2節)という呼びかけの狙いは、これほどに広汎である。それが全能者キリストという、すべてを治め導く主キリストのイメージを生み出させる源である。このようなキリスト像は、実は我々のささげる感謝の祭儀(ミサ)をも貫いている。奉献文の始まりの対話句「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」「心をこめて神を仰ぎ」「賛美と感謝をささげましょう」のうちの「心をこめて神を仰ぎ」という句の原文は直訳すると「心を上に」「神に向けています」というものである。日本語の「心をこめて神を仰ぎ」も十分それを言い表していると思うが、コロサイ書の「上にあるものに心を留め」なさいとのつながりをも考えさせる原文であることを知っておくことも大切である。感謝の祭儀を生活の軸として生きようとするのは、まさしく地上のものに心をないようにし、神の前で豊かな者となるためであるといえるだろう。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

宗教や正義の名によって暴力は正当化され得ない
 9.11以降その一年間に、ヨハネ・パウロ二世が演説などで繰り返したキーワードが注目されてきた。それは「神や正義の名によって暴力が正当化され得ない」ということばである。宗教の名によって教会の歴史のなかで過去に行われてしまった暴力に対して公の謝罪をした教皇は、神の名を乱用するテロ行為が断じてゆるされないと同じように、正義の名によって行われてしまう暴力も正当化され得ないことを明らかにしている。この点でも、現数皇はヨハネ二十三世の『地上の平和』の路線と一致している。たしかに、人権を侵害する暴力も、その侵害を是正しようとする暴力も、否定されるべきである。

ホアン・マシア 著『暴力と宗教』 1章 『地上の平和』四十年後 本文より

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