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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年8月21日 年間第21主日 C年 (緑)  
そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある (ルカ13・30より)
 
最後の晩餐
二枚折書き板装飾
アトス ヒランダリ修道院 14世紀
 
 きょうのミサの聖書朗読は、福音朗読箇所がルカ13章22-30節。主題句はその終わりのほう29節からとられている。「人々は、東から西から来て、神の国で宴会の席に着く」である。神の国の完成が「宴会」のイメージで語られるところは、ルカでもほかに14章7-24節にある(来週の福音朗読箇所14・1、7-14))。主の晩餐、主の食卓と呼ばれて始まった教会の感謝の祭儀(ミサ)と直結する神の国のイメージである。そして、この宴会(神の国)に、神は、あらゆる人を招いているというメッセージがきょうの主題となっている。第1朗読のイザヤ書66章18-21節で、冒頭の18節でも「わたしは……すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む」とあり、また20節からとられている主題句は異邦人の「彼らはあなたたちのすべての兄弟を、あらゆる国民の間から連れて来る」とされている。答唱詩編でも詩編117 の1節「すべての国よ、神をたたえ、すべての民よ、神をほめよ」(典礼訳)が歌われている。万人の救いを望まれる神の意志を悟り、それにこたえて賛美する句である。
 こうして、一見すると、きょうの主題は、神はすべての人を神の国に招いているという普遍的な召命の事実であるように思われるが、福音朗読箇所にはもう一つの主題が隠されている。朗読箇所の冒頭で、イエスがエルサレムへ向かって進んでいたとき「『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と言う人がおり、それをきっかけに、イエスが一同に「『狭い戸口から入るように努めなさい……』」(ルカ13・23-24参照)。「入ろうしても入れない人が多い」という厳しい宣告が続くほどである。
 結局、ここでは、神の国に入るにふさわしい生き方、あり方、姿勢、心が問われていることになる。本当にイエスの弟子となることは、どういうことか、その招きは、もちろん、すべての人に及んでいるが、その招きにふさわしい生き方をしているだろうか。第1朗読では、イスラエルの民の不従順の歴史が踏まえられており、そこから異邦人も含むあらゆる民への招きが実行されることが予告されている。そして、神の国の宴会の席に対しても、本来招いていた民の不義を前提として、むしろすべての人が招かれることになるという、戒めも含んだような意味合いでの神の国への招きである。
 最後の晩餐自体にも、このような招きと同時に、弟子たちの決意への厳しい問いかけが含まれているのではないだろうか。最後の晩餐は、一般には、イエスが自分の体と血をパンとぶどう酒の杯をもって示し、その後の時代の「感謝の祭儀」(ミサ)の制定と呼ばれるが、福音書を読むと、この制定の主題と同じほどに重要な主題となっているのが、イエスに対して弟子の一人が裏切ることの予告である(マタイ26・21-25;マルコ14・18-21;ルカ22・21-23;ヨハネ13・21-30参照)。最後の晩餐は、パンとぶどう酒の杯に自分のこれから十字架にかけられて命をささげる行為を託し、その記念を呼びかけつつ、徹底した御父への従順を貫こうとするイエスに弟子たちがついてくるようにと、いう究極の召命の行為でもある。弟子たちがそのことを本当に悟るのは、復活を経験してからであることは周知のとおりである。そこに福音書のクライマックスがある。
 さて、表紙絵に掲げた、アトスのヒランダリ修道院の二枚折り書き板(原語は「デュプティコン」で、東方正教会の聖体祭儀で奉献文の取り次ぎの祈りのところで記念される生者・死者を含む共同体のメンバーの名を書き記した板のこと)の一場面の最後の晩餐は、ルカ福音書の叙述に従えば「見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」(ルカ22・21-22)にあたるところといえよう。ただし、伝統的に最後の晩餐の図は、ヨハネ福音書13章に従って「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者」(ヨハネ13・23)を描くのが通例である(使徒ヨハネと考えられている)。この絵でも左端のイエスのすぐ隣でイエスにすがりつくようなこの弟子が描かれているとおりである。
 では、実際に裏切ることになるユダはどこに描かれているだろうか。パンや杯のほうに手を伸ばしている弟子は数人いる。しかもこの作品では、裏切る者についてのマタイ福音書の「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した物」(26・23)とマルコ福音書(14・20)の「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者」、あるいはヨハネ福音書(13・26)の「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」といった言及に対応する描写はない。すると、どうなるだろうか。推測だが、おそらくこの場面の(向かって)右端にいて、杯のほうに手を伸ばしている人物ではないか思われる。イエスの視線とちょうど対極に位置づけられているからである。
 神の国を宴会や婚宴にたとえるイエスの教えも、そして最後の晩餐における「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22・19)という呼びかけも、もちろん、感謝の祭儀の実行命令であるとともに、同時に、神の国の完成のときまで、主に従っていくことへの召命のことばにほかならないことを、図像観賞とともに味わってみよう。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

王的な支配とその領域
 ルカやマルコは「天の国」をまったく用いず、もっぱら「神の国」と表現し、マタイは「神の国」を避けて、「天の国」と言い換える傾向を強く持っていることになる。マタイが「神」に代えて「天」を使うのは、当時のユダヤ世界では「神」を口にするのを避け、「天」という娩曲表現を好むようになっていたからである。マタイ福音書はユダヤ人キリスト者に向けて書かれたとされるが、マタイが「天の国」を好んで用いたのも読者層を考えてのことであろう。

雨宮 慧 著『聖書に聞く』15「天の国」と「神の国」 本文より

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