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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年9月25日 年間第26主日 C年 (緑)  
 この貧しい人は、死んで……アブラハムのすぐそばに連れて行かれた (ルカ16・22より)
 
金持ちと貧しいラザロのたとえ
フランス
モワサック修道院の浮彫 12世紀

 きょうの福音朗読箇所はルカ16章19-31節、その少し前の箇所で言及される「金に執着するファリサイ派の人々」(ルカ16・14)に向けて語られた、「金持ちとラザロ」と題されるたとえ話を浮彫作品は表現している。
 モワサックは、フランス南西部ラングドック地方、カオール司教区にある町。ここに7世紀にベネディクト会修道院が建てられたが、8-9世紀と異民族の侵攻が相次ぎ、衰退した。11世紀半ばにクリュニー修族の一修道院として再建されたときから、修道院改革運動の先頭に立って大きな影響力を発揮するようになる。その後、12世紀にかけて修道院はロマテスク様式の建築として生まれ変わり、壁画や柱にはキリスト像や預言者、使徒の像、さらにキリストの生涯の場面を題材とする浮彫が多数制作された。
 ここでは、金持ちとラザロのたとえ話の発端の部分が描かれている。右側には、上等な服を着て豪勢な食事をしている金持ち、左下には、横たわる貧しいラザロがいる。ラザロの足元では、犬が二匹、彼の体にできたできものをなめている。しかし、ラザロの上には、すでに天使が描かれている。たとえ話の22節「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」につながる光景である。ラザロは、すでに天使によって慰め(25節参照)を受けているようである。それほど、天使の描写には勢いと天上の光に照らされている明るさが感じられる。
 このたとえ話を題材とする絵が頻繁に描かれるようになるのは、10-11世紀の福音書写本画であり、12-13世紀になると、特に金持ちと貧しいラザロが対照的に描かれるような作品が多くなるという。その当時のヨーロッパ社会での貧富の問題が深刻であり、それが、また修道院改革や教皇主導の教会改革の大きな動機にもなっていた。自ら清貧を追求する人々の出現する時代でもある(アシジのフランチェスコが代表的) 。そして、ぜいたくを尽くす金持ちの姿やその食卓風景は、しだいに各時代の王侯貴族の生活風景を反映するものになっていく。この浮彫作品の(向かって)右側の金持ちの食卓もそのような特色があるのだろう。
 福音朗読は、金持ちと貧しいラザロの対比が前面に出ているが、第一朗読箇所のアモス書6章1a、4-7節では、「災いだ、シオンに安住し、サマリアの山で安逸をむさぼる者らは」(1a節)とあり、体制に安住している支配者への災いの予告になっている。富裕と貧困、支配と被支配の対比は、旧約聖書の時代も、中世も、そして現代も変わることのない、人の世の常の現象といえるかもしれない。そのような世のあり様の中で苦しんでいる人々に神のまなざしが注がれている。その神のみ心に気づけるかどうか、それにこたえて信仰と信頼と希望をもって生きていくことができるか、愛を実践することができるか、きょうの聖書朗読全体は、我々に訴えているのだろう。第二朗読箇所の一テモテ書6章11-16節のことばが端的に、そのような信仰者の生き方を求めている。「神の人よ、あなたは、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」(11-12節)。もちろんこの戦いのゴールは、再び来られるキリストであることを一テモテ書は語る。「わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい」(14節)と。
 これらをヒントにすると、金持ちとラザロのたとえも、我々にとって大変身近になる。ここでの金持ちの態度も、ラザロの態度も、我々自身のうちに繰り広げられている迷いを反映しているものと言えるかもしれない。人の世を生きるかぎり、金持ちのような思いにとらわれることもあろうし、ラザロのように、神のみにしか助けを求めることのできない、ぎりぎりのところで生きることもあろう。「ラザロ」という名前が、たとえ話に出てくることは珍しいという。ヘブライ語の名前「エレアザル」の短縮形の名前で、「エレアザル」とは「神は助けたもう」を意味するという。神にのみより頼むことのできない、貧しい人、弱い人を象徴するこの名前は、ヨハネ福音書11章から12章に登場する、「ラザロの復活」のエピソードでも有名なラザロである。ただ、この名前の意味を考えると、きょうの福音のたとえ話においても、ヨハネ福音書のエピソードにおいても、神にのみ信頼する人、その意味では、すべての信者の象徴であるということも言える。そのラザロが、天使によって点に迎えられようとしている、たとえ話、そして、イエスによって復活させられた、という出来事も、すべてのキリスト者にとってはまさしく希望の福音であり、励ましのメッセージである、といえよう。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

当時の平和を求める心
 フランシスコたちの生き方、すなわち無所有で、すべてに従い、さまざまな出自の人々が共に生活をする生き方自体が平和を告げる者にふさわしいものだったのだ。人よりも物質的に豊かになろうとすること、人よりも上に立とうとすること、自分と異なった人を認めないこと、これらはまさに争いの原因となるものなのだ。しかし、フランシスコたちはそのような生き方とまったく逆な生き方をした。それゆえ、多くの人はフランシスコたちの平和の挨拶に耳を傾けたのだろう。

伊能哲大 著『現代に挑戦するフランシスコ』 5「平和」を告げること 本文より

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