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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年10月16日 年間第29主日 C年 (緑)  
人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか(ルカ18・8より)

荘厳のキリスト
祭壇浮彫
スペイン シロス サント・ドミンゴ修道院 12世紀 

 表紙作品は、玉座にいる主キリストを描くもの。題材としては、先週と同様「荘厳のキリスト」像であるが、これは、エマイユによる祭壇前飾りである。同様の定型要素があるので、比較しながら観賞するのもよいだろう。
 まず、光背に包まれるようにして、玉座に座すキリストが描かれる。光輪の一部(右下)は外れている。全体として、大きなアーモンド型の枠でもって、キリストの栄光を浮かび上がらせている。キリストの右手は、神的権威と祝福を示すしぐさ、左手には神のことばの象徴としての書を上から握っている。キリストの肩の両側にはギリシア語のアルファとオメガの文字が記されている。黙示録22章13節をただちに想起させるものである。「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」。キリストが最後の審判のために到来することの予告でありつつ、永遠の存在であること、創造の始まりから万物の完成に至る救いの歴史を導く方であることを示す文字記号である。
 栄光の主を囲むように、四隅には福音書著者を象徴する四つの生き物が描かれている、(向かって)左上は人(マタイの象徴)、右上は鷲(ヨハネの象徴)、左下はライオン(マルコの象徴)、右下は雄牛(ルカの象徴)である。これらの象徴は、エゼキエル書1章に登場する四つの生き物、それを踏まえた黙示録4章6-8節の四つの生き物に基づいており、黙示録では、これらが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(黙示録4・8)と、絶えず神を賛美している。これらの定型要素をもって、天上にありつつ、終わりの時に地上に再び来られ、裁きを行う方としての主キリストの姿を強調するのがこの図像である。
 さて、このようなキリスト像は、きょうの福音朗読箇所ルカ18章1-8節で末尾の「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)に関連して掲げられている。この福音箇所では、さりげなくキリストの再臨が予告されており、それに向けて、絶えず神のみ前にいることを意識しつつ、神に信頼して「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(ルカ18・1)と諭される。このような教えは、年間の終わりに向けて強調されていく、終末におけるキリストの来臨と裁きについての教えに流れ込み、やがて待降節第1主日に告げられる「目を覚ましていなさい」(マタイ24・42)といったメッセージにつながっていく。
 「絶えず祈りなさい」というメッセージをいわば裏返しに強調するために、この日の福音朗読箇所の中では、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」(ルカ18・2)の事例のたとえで、イエスは語っている。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない」(4節)と自認するこの裁判官が、「あのやもめは、うるさくてかなわないから」(5節)という動機であっても、訴えを聞いて裁判をすることになる。ましてや神であれば、人の叫びや訴えを「ほうっておかれることがあろうか」(7節)という論法で、神は必ず祈りを聞き入れてくださる方であることを、ある意味でユーモアをもって教えているところでもある。地上の人々に真の信仰的な態度を求める「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)の反語的な問いかけも、戒めのように語っているのではなく、ユーモアをもっての確認の問いかけとして語られているのではないだろうか。
 第一朗読箇所の出エジプト記17章8-13節は、イスラエルの民とアマレクという名の民族との戦いのエピソードから、モーセが手を上げて神の働きを祈り求め、その手を上げる姿勢をアロンとフルが支えた、という一場面に触れる。求められていることが戦での勝利であっても、ここで肝要なのは、神から遣わされた指導者(モーセ)が神を呼び求め続けるときに、神からの応答が行為として示される、という事態であろう。
 他方、第二朗読箇所二テモテ書3章14節~4章2節では、来臨のキリストがはっきりと思い浮かべられている。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(4・1-2)
 ある種の緊張感をもって、信仰者は宣教者としても生きていくべきものであることが、教えられている。自分自身の生き方を省みさせることばのうちにも、主キリストの来臨への確かな信頼がにじみ出ている。
 ミサにおいて、このように来臨される主は、信仰宣言の使徒信条を通じても「(主は)、生者と死者を裁くために来られます」のうちに宣言され続けている。そして、感謝の賛歌のうちに、「今おられ、やがて来られる」(黙示録4・8)主が、ミサの中で迎えられている。このようなキリストへの信仰は、奉献文全体を通して、十字架上で死に、復活したキリストの姿を思い起こさせつつ、「キリストによってキリストとともにキリストのうちに」なされる神への永遠の賛美へと合流していくのである。「荘厳のキリスト」像は、まさしくミサにおられる主の姿にほかならない。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

年間第二十九主日
 「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く」(出エジプト22・21-22)。男性中心社会では、夫あるいは父親を持たない寡婦・孤児はどうしても不利な立場に立つ。旧約聖書は彼らを擁護するように何度も教えるが、人は誰でも自分の利益を優先させ、弱者の擁護は後回しにしたにちがいない。

雨宮 慧 著『主日の福音――C年』「年間第二十九主日」本文より

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