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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年11月6日 年間第32主日 C年 (緑)  
すべての人は神によって生きている (ルカ20・38より)

陰府(よみ)に下るキリスト
モザイク(部分)イタリア トルチェッロ司教座聖堂
12世紀 

 きょうの福音朗読箇所(ルカ20・27-38)の末尾のイエスのことばは力強い。復活をめぐるサドカイ派の人々との議論で、死んでからのことをあれこれ詮議する彼らに対して、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(38節)と言い、そして「すべての人は、神によって生きている」と告げるのである。
 「神は生きている者の神なのだ」(38節)ということは、死んだ人を問題にしないという意味ではないだろう。すべての人は神によって生きるし、死ぬことは、もっと神によって、神とともに生きることになる……という意味で、復活ということを単に死後の運命のこととしてではなく、全く新しい意味で復活を語ろうとしている箇所といえる。「すべての人は、神によって生きている」――このことは、死を超えても真実となる。その意味合いを、イエスは単に議論としてではなく、自らの死を通して、そして復活を通して実際に示していくことになる。ここでの議論も、広い意味でイエスの死と復活の神秘への一つのアプローチとなる。
 第一朗読箇所を見ると、この二マカバイ記7章1-2、9-14節の箇所は、新約聖書の復活信仰の前提となった信仰を記している。「世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ」(7・9)、「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである」(7・14)。このような、死を超えての命への希望と確信は、全人類にとって真実のものとなったというのが、イエス・キリストの死と復活の神秘にほかならない。
 このようなことを踏まえて、表紙絵では、すべての人はキリストの死と復活によって死の支配から解放され、生きる者とされるということを示す場面という意味で「キリストの陰府降下」のイコンを掲げた。空(から)の墓で天使が女たちに復活を告げる場面の図と並んで、イコンにおいては、これが主イエス・キリストの復活を表現するものとなっている。
 新約聖書ではイエスの復活について語る箇所がその土台となっている。使徒言行録2章24節は「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」と告げ、一コリント書15章20-22節では、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」とパウロは語る。イエスの死の意味について語るヘブライ書2章14-15節「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」も重要である。
 イコンは、これらをもとに陰府をイメージしつつ、人類、すべての人の象徴としてのアダムとエバ、そして、その時代の人々をあわせて死の支配下にある人類を表現し、イエスがアダムの手を握り、引き上げる光景を描く。
 このイコンにおいては、イエスがアダムの手を握り、引き上げ、前へ進ませるという姿勢になっている。アダムの後ろにはエバがいるはずだが、その後ろは王や后(きさき)のように高貴な人々との印象も強い。そして、興味深いことに、極めて独特なのだが、イエスの(向かって右側)、すなわちイエスが前へ歩んでいこうとする方向に洗礼者ヨハネが描かれている。ヨハネは、右手でイエスのことを指し示し、救い主としてあかししている姿である。このような位置に洗礼者ヨハネが描かれるとき、これはいわゆる「デイシス(請願・執り成しの祈り)」の型を想起させる。すなわち主キリストの(向かって)右側から洗礼者ヨハネが、そして左側からマリアが人類の救いをキリストに願うという姿勢の構図の絵である。それを考えると、アダムの後ろの女性は、エバというよりもマリアにも見えてくる。
 アダムを陰府から引き上げるという、復活のイエスの姿は、そのまま新しい人類の誕生を告げている、といえるかもしれない。この出来事全体の背景をなす金色が鮮やかである。神の栄光が陰府をくまなく照らしていることを示す。あたかも人類の復活と新生を祝福するかのようである。洗礼者ヨハネの背後の無数の人々は、旧約の預言者や律法学者などが描かれていると思われる。
 画面の下にも注目しよう。アダム、イエス、洗礼者ヨハネの足もとにある地の穴のような箱のような空間が陰府であろう、そして、イエスの真下には、柩の蓋が開けられている。この死の国の扉を組み立てていた錠前や鍵、閂(かんぬき)や杭(くい)が外され散らばっている。これらすべては、死の支配、死の束縛がすべて解かれたことを示している。そして、両側の下には、墓の中から復活させられようとしている人々が主を仰ぐようにして描かれている。義によって神に迎えられようとする人々を表しているのだろう。こうして、イエスの死、すなわち陰府に下ったことを通して、絶対的な死への扉は決定的に打ち滅ぼされ、永遠の命の支配が始まるのである。
 イエスの表情は、目の力がひときわ強く、威厳に満ちている。しかし、それは、あくまでも十字架の苦しみを生き抜いた者の表情である。左手の十字架を握る力もまた力強い。イエスの(向かって)左上に記されるギリシア文字は復活(アナスタシス)の略記である。主キリストの死と復活が、まさしくこの光景の中に図像化されている。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

サドカイ派
 ユダヤ教の中の指導者の一派であって、エルサレム神殿を中心とする祭司的貴族階級の集団です。宗教と政治の最高指導者として紀元前二世紀からエルサレム滅亡(七〇年)まで勢力をもっていました。サドカイ派の中から、代々の大祭司が選ばれるなど、イスラエルの中でも特権的な地位にありました。

オリエンス宗教研究所 編『聖書入門──四福音書を読む』「第五講 福音の核心」コラムより

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