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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2024年6月9日 年間第10主日 B年 (緑)  
お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く  (第一朗読主題句 創世記3・15よりより)

神の前のアダムとエバ
モザイク(部分)
イタリア モンレアーレ大聖堂 12世紀


 イタリア南部シチリア州のパレルモ県モンレアーレにある大聖堂のモザイクには創世記のさまざまな場面が描かれている。きょうの第一朗読箇所である創世記3章9-15節にちなみ、アダムとエバに主なる神が語りかけている場面が表紙絵として掲げられている。
 イタリアのシチリアは、9世紀後半にイスラム教徒のアラブ人が支配を固め、中心の町パレルモは大都市として発展した。やがて11世紀には北方のノルマンが進出、この地を征服し、イスラム教徒とも共存するアラブ・ノルマン様式の文化を発展させた。その様式の代表的な建造物の一つがモンレアーレ大聖堂である。
 第一朗読箇所は創世記3章9-15節だが、この絵は、その前の4節あたりの文脈が含まれている。つまり蛇に唆されて、女(エバ)が園の中央にある木の実を食べ、一緒にいた男(アダム)に渡して彼も食べる(6節参照)。すると、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(7節)というところである。このモザイクには、背景に二つの木が描かれている。アダムとエバの後ろにある木は、問題なく食べてもよい木。二人と神との間にある木が問題の「園の中央に生えている木」(3節)で、その果実は食べても触れてもいけないとされている木である。腰を葉で覆ったアダムとエバに、さらに蛇に対しても、主なる神は言葉を語る。その内容が9節から19節まで述べられている。そのうちの14-15節は、実は、蛇に向かって語る言葉である。朗読箇所はその15節までで、きょうの聖書朗読配分の意図は、この蛇に向かって語る言葉の中にある。すなわち「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(15節)である。このやや謎めいた言葉だが、伝統的な解釈において、この節は「原福音」と呼ばれるものである。この点について、『フランシスコ会聖書研究所訳注 聖書』(2011年版)の注(旧約11ページ上段4項)が参考になる。ちなみに新共同訳で「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」と訳されている部分は、フランシスコ会訳では「彼はお前の頭を踏みつけ、お前は彼のかかとに咬みつく」と訳されている。こちらのほうが、蛇のイメージと対応しやすいといえる。
 ただし、重要なのは、前段の「お前の子孫」つまり蛇の子孫、女の子孫を対置させる言い方には、究極的には、蛇の子孫とは悪に属するものすべてを意味する。そして「女の子孫」(原文では単数代名詞)には「人」が意味されている。これを全人類と解釈する見方もあるが、同時に究極の人、「人の子」としてのキリストを暗示するというのが、旧約と新約を関連づける見方である。そのために、15節後半では「彼」という男性単数形の代名詞が入れられているらしい。こうして、罪に堕ち、悪魔に支配される人類に対して、救い主が訪れて、最終的な対決がなされることを暗示し、それに向けての希望を示す、神の予告(約束)として、この節を「原福音」と呼ばれる解釈伝統がある。
 使徒書の中でイエスと「悪魔」(ギリシア語ディアボロス)に言及する箇所、たとえば、ヘブライ書2章14節「悪魔を御自分の死によって滅ぼし」、一ヨハネ書3章8節「罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」は、神の御子イエス・キリストによる悪魔の滅びを要約的に語るが、それをイエスの歩みの一コマとして伝えるのが福音書である。
 なかでもマルコ福音書はイエスの福音宣教の初めの段階で、汚れた霊に取りつかれた男をいやす出来事(マルコ1・21-28 B年の年間第4主日の福音朗読箇所)があった。その後も病気の人をいやす話が続き、これらの業(わざ)に関して、「悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」(マルコ3・22)と悪口が立っていることに、イエスが対処するのがきょうの福音朗読箇所である。そこで、イエスは、自らの働きが聖霊の働きでもあることを暗示しつつ、「聖霊を冒涜するものは永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(29節)と力強く宣言する。
 このように、きょうの福音朗読箇所は、来るべき神の御子による悪の支配者の打倒という、待ち望まれていたことが、イエスによって実現されつつあることを明記している。そのように考えていくと、このモザイクが描くところの創世記の「原福音」の場面において、中央の木は十字架を、アダムとエバの裸の体は十字架上のイエスの体を連想させるとも言える。人類の創造の時から救い主キリストが待ち望まれている。福音朗読箇所後半(マルコ3・31-35)の「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(33節)というイエスの問いかけ、そして、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(35節)、ということばは、まさしく新しい人類の誕生を告げ知らせている。そのような展望さえ広がるのがきょうの聖書朗読である。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(B年)●典礼暦に沿って』年間第10主日

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