2025年6月1日 主の昇天 C年 (白) ![]() |
![]() 主の昇天 朗読福音書挿絵 マドリード国立図書館 10世紀 主の昇天を描く、10世紀の朗読福音書挿絵である。昇天の祭日にいつも読まれるきょうの第一朗読箇所の使徒言行録1章1-11節とともに鑑賞していこう。 イエスは、ちょうど地上のマリアと使徒たちの上に既に昇りつつある。円形の枠の中に描かれていることで、天の次元の存在であることが表現されている。「イエスは彼らが見ているうちに天にあげられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(9節)というあたりがこの円形の括りによって表現されている。そして、両脇から天使がイエスのいる空間を天に運んでいるという構図である。 このイエスの姿はイコンにはよく見られるようなもので、右手が祝福のしぐさ、左手には書物が掲げられている。天の御父の右の座にいる姿がこの中で予示されていると言えよう。きょうの福音朗読箇所は、ルカ24章46-53節で、使徒言行録の著者でもあるルカのその福音書の締めくくりとして述べている内容である。その51節でイエスが弟子たちを「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」ことが述べられている。この箇所の姿を思うためにも、この表紙絵はふさわしい。 既に天の次元にいるイエスの上には、天そのものが濃い青の半円の部分として描かれており、神の働きを象徴する右手がその中に描かれている。もちろん、そこは聖霊の満ちる空間であり、濃い青がそのことを想像させる。御父の働きを示す右手を囲む小さな円、イエスの姿の背後、そして天使や地上のマリアと使徒たちは、すでに金色の地で統一されている。すべてが神の空間になりつつあることを表現していると言えよう。 イエスの下に描かれる二位の天使は、昇天の事実を使徒たちに告げ知らせている。使徒言行録の記述「白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか』……」(10-11節)に相当する。そばに立っている様子としではなく、天使が昇天するイエスのことを弟子たちに伝えているという取り次ぎ手という描き方がなされている。 使徒たちの中央にはマリアがいる。使徒たちの中間にあって、やや彼らとは距離を置きつつ、かつ、四角い台の上に立ち、古代キリスト教美術でなじみ深いオランス(祈る人)の姿勢をとっている。マリアの姿それ自体が神の民、教会の象徴にふさわしい。使徒言行録で、昇天の場面ではマリアのことは言及されていないが、昇天のあとエルサレムに戻ってきた使徒たちの集いの中に「イエスの母マリア」がいたことは、はっきりと記されている(使徒言行録1・14)。この共同体の上に聖霊降臨があり(使徒言行録2・1-4)があって、教会として本格的に動き出すことを思うと、ここでのマリアの描き方がふさわしい。御父の右の手、イエス・キリスト、そしてマリアがこの絵の中心線をなしており、柱になっていることは、とても意味深い。 使徒たちを見てみよう。マリアの両側に六人ずつ描かれている。使徒言行録1章13節では11人の名前が記述されている。イスカリオテのユダがいないので11人である。その23-26節にはマティアが選出されて11人に加わったことが記されてそこで再び十二使徒になっている。ということは、昇天の場面における使徒の数は11人だったことになるが、この絵では、12人描かれている。これは、マリアの姿が教会の象徴として描かれていることと同様に、教会の使徒的使命の象徴として十二使徒になっているということだろう。興味深いのはマリアの(向かって)右側のいちばん前には、まっすぐ横を向いている白髪白髭の使徒がある。まちがいなく使徒団の頭であるペトロである。マリアの(向かって)左側にいるのは、額の禿げ上がった様子からパウロではないかと思われる。もちろん、使徒言行録の叙述の中でパウロが登場するのはもっと先で、この昇天の場面にいるはずはない。しかし、この絵の構想においては、マリアが中心で、ペトロとパウロが使徒たちの中で際立つという、教会観そのものがあることを考えるとパウロであると考えられないこともないだろう。いずにしても、この使徒たちの一人ひとりの顔や表情が、密集した構図の中で、非常によく描き分けられていることは興味深い。これはどの使徒だろうかと、想像をめぐらしたくなる。 昇天の出来事はこれだけで完結するのではなく、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒言行録1・8)とあるように、聖霊降臨と一体の出来事であり、そして、天使から「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(1・11)とあるように、終末におけるキリストの再臨に向かう方向性を決定的に開く出来事である。ここに、聖霊降臨からの地上における教会の活動と、その完成に向けての展望が開かれており、現代の我々は、まさしくその中にあり、生きている。感謝の祭儀(ミサ)において具現される、天におられるキリストと教会の交わりの姿がこの絵に描かれている。我々の側に引き寄せて、この絵を味わうことが大切だろう。イエスの昇天を見上げるマリアと使徒たちの姿は我々の姿の始まりでもある。 |