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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2025年6月22日 キリストの聖体 C年 (白)  
メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た (第一朗読主題句 創世記14・18より)

アブラム(アブラハム)とメルキゼデク
創世記ウィーン写本挿絵 
ウィーン オーストリア国立図書館 6世紀

 キリストの聖体の祭日である。C年の福音朗読箇所ルカ9章11節b-17節で、イエスがパン5つと2匹の魚で5千人もの人々を満腹させ、そのパンの屑が十二籠(かご)もあったというエピソードである。同様の出来事は、他の三つの福音書も伝えている(マタイ14・13-21、マルコ6 ・30-44 、ヨハネ6・1-14)。パンについて言えば、イエスがそれを手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え(または感謝の祈りを唱え)、裂いて与えた、という動作が印象深い。この動作は、最後の晩餐でも行われる(マタイ26・26; マルコ14・22; ルカ22:19 参照)。そして、このような動作で行われる食事は、初代教会において「主の晩餐」または「パンを裂くこと」と呼ばれる典礼の源となり、現在の感謝の祭儀(ミサ)に至る。まさにその主の晩餐の始まりは、第二朗読箇所である一コリント書11章23-26節が伝えている。
 つまり、福音の「パンの増加の奇跡」は、イエスが与える食べ物がすべての人を満たして余りあるほどの恵みであるという意味で、キリストによる救いの恵みと聖体の秘跡を暗示し、第二朗読では、主の晩餐の制定を想起し、今、我々が参加してささげる聖体祭儀、すなわち感謝の祭儀の源を確かめるものとなっている。このようなキリストの聖体についての教えの基本を含む二つの朗読に対して、第一朗読箇所では、創世記14章18-20節が配分されている。「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」(18節)がアブラム(後のアブラハム)を祝福する場面である。きょうはこの箇所の意味を考えるために、6世紀の聖書挿絵が掲げられている。
 創世記14章の文脈によれば、エラムの王ケドルラオメルとその味方の王たちに捕らえられた甥のロトを救い出して、これらの王たちを打ち破ったアブラムが王の谷に帰還したときのエピソードである。メルキゼデクは「パンとぶどう酒を持って」(創世記14・18)来て、アブラムを祝福し、これに対して、アブラムは、「すべての物の十分の一を彼に贈った」(20節)。
 このメルキゼデクという存在は、後の詩編110(きょうの答唱詩編)、そして、この詩編の解釈も含むヘブライ書4章14節~7章において、メシア(救い主)であるキリストと結びつけられて、キリストを前もって示す存在(予型)として証明されていく。詩編110の4節で「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司メルキゼデク(わたしの正しい王)』とある(新共同訳)。答唱詩編の典礼訳は「『メルキゼデクのようにおまえは永遠の祭司』これはゆるぎない神のことば」となっている。ヘブライ書は、はっきりと、「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこ(聖所)に入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」(ヘブライ5・20)と語る。イエス・キリストが永遠の祭司であり、王であることをあかしするための根拠となっているのである。
 詩編76の3節によると「神の幕屋はサレムにあり、神の宮はシオンにある」と、サレムがエルサレムと説明されていることも、さらに救いの歴史の深みを暗示させる。神の王国の首都であり神殿の町、イエスの受難と復活のあった都市であり、救いの完成が新しいエルサレムの到来として待望される根拠となる町だからである(黙示録21章参照)。
 このように、創世記におけるメルキゼデクとアブラム(アブラハム)の出会いを想起することで、我々は、聖体の秘跡に込められている救いの歴史全体の大きな展望に触れることができる。とくに、西方の教父たち(キプリアヌス、アンブロシウス、アウグスティヌス)によって、メルキゼデクが持って来たパンとぶどう酒が聖体を前もって暗示するもの(予型)と考えられ、感謝の祭儀における奉献を暗示するものと解釈されていった。ローマ典礼のミサの奉献文(現在の第一奉献文)で、「メルキゼデク」(奉献文では「メルキセデク」)が言及されるのも、そのような解釈伝統による。
 ところで、創世記14章におけるメルキゼデクの言葉「天地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された、いと高き神がたたえられますように」(創世記14・19-20)に注目したい。ここで、「アブラムが祝福されますように」という祝福の表現も「神がたたえられますように」という賛美の表現も、ヘブライ語では一つの同じ動詞である。日本では訳し分けられているが、この動詞から派生する名詞「ベラカー」も祝福と賛美の両方を表す。神から人への祝福、そして人から神への賛美が一つのことであり、一つの交わりが表される。
 きょうの福音朗読箇所の中で、「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのための賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」(ルカ9・16)とあるが、ここの「賛美の祈りを唱える」のギリシア語の動詞(エウロゲオー)は上記のヘブライ語の訳語として使われている。イエスはここで神を賛美しつつパンと魚を祝福し、神によって聖なるものとされたものとして、またそれを神にささげる。このようにして聖なるものとなったささげものに民にあずからせる。祝福と賛美、聖別と奉献は一つに結びついていることであり、それは、感謝の祭儀(ミサ)のとくに奉献文のところで、いつも、我々に対して示され、実行される。そのような聖体の秘跡、感謝の祭儀の意味の深さを、絵とともにメルキゼデクとアブラムの出会いに遡って、黙想することをお勧めしたい。
 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(C年)●典礼暦に沿って』キリストの聖体 C年

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