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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2025年7月20日 年間第16主日 (緑)  
お客様、僕(しもべ)のもとを通り過ぎないでください (第一朗読主題句 創世記18・3より)

アブラハムが迎えた三人の客
ビザンティン・イコン
コソボ デチャニ修道院 16世紀半ば

 きょうの表紙絵は、第一朗読箇所である創世記18章1-10節a の箇所にちなむ。神がマムレの樫の木の所でアブラハムに現れたという出来事を描くところである。聖書の本文では興味深いことに「主は……アブラハムに現れた」(1節)と冒頭で述べられ、具体的にはアブラハムが「目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた」(2節)と記される。そのあとからのアブラハムのこの三人への応対と会話が非常に興味深い。第一朗読の主題句にも引用されている「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください」(3節)に始まり、アブラハムのもてなしぶりが印象深く描かれる。最後に、アブラハムの妻サラに対して、三人のうちの一人が来年もまた来ることを確約し、「そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」と、後のイサクの誕生を予告する。
 こうしたアブラハム、そしてサラも一緒になってのもてなしが話題であるために、この場面は美術においては、饗応(ギリシア語で「フィロクセニア」)というタイトルで描かれるようになる。ローマのカタコンベの壁画にもアブラハムの姿と彼のもとを訪れる三人の人の姿が描かれている。
 キリスト教絵画の歴史では、この三人が三位の天使として描かれていく傾向になり、東方教会ではこの三位の天使が神の訪れであるという創世記の記述に基づいて、これを三位一体の神の現れとしてこの三位のみを描く伝統が11世紀に生まれ、一つの伝統となる。その典型ともいえる、最も有名なイコンは、15世紀初めのアンドレイ・ルブリョフ作のイコンである。表紙絵のイコンも、その作品の影響下にあるものである。
 創世記18章の本文で、アブラハムがもてなしのために供したパン菓子、子牛の料理、凝乳、乳(6節、8節参照)といったものは、この種のイコンには描かれない。三位の天使たちが囲む卓には一つの黒い器のみが記されている。それはあたかも聖体容器のようである。そして、これは、たしかに聖体の象徴として置かれているようである。このタイプのイコンでは、三位の天使のどれが御父、御子、聖霊であるかはよく問われる。その解釈論も諸説ある。表紙絵のイコンのように聖体容器と見てとれる器に手を伸ばしている(向かって)右の天使を御子と考えることが自然であろう。向かい合っている(向かって)左の天使が御父であるか、あるいは中央にいる天使が御父であるか……思いをはせてしまうが、それは趣旨とは違うのかもしれない。三位の神の一体性、その調和の光景こそが主題であると思われるからである。三位一体である神、その三位の優雅な交わりのうちに具体的には聖体がそのかたちとなって、我々に向かって差し出され、そして提示されているという関係性が重要である、というように味わうのが大切であろう。
 ところで、創世記18章1-10節の箇所がきょうの第一朗読に配されているのは、福音朗読箇所がルカ10章38-42節、すなわちマルタとマリアがイエスを迎える場面であることによる(ちなみにルカは、ここでもイエスを既に「主」と呼んでいる。マリアが「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(39節)という姿、他方、マルタがイエスを迎えるもてなしのためにせわしく立ち働いている姿の対照が鮮やかである。この二人の対応のエピソードだけだと、我々はすぐにはミサのことを連想しないかもしれない。しかし、第一朗読の場面を描くイコンが聖体の秘跡、感謝の祭儀、主の食卓にまでも、目を向けさせてくれていることをヒントに、このマリアとマルタの応対も我々の典礼奉仕に関連づけて考えてみることができるかもしれない。
 主を迎えるための働き(アブラハム、サラ、そしてマルタ)の誠実さ、そのものは、これらの場面で、決してネガティブに述べられているのではない。むしろ、その姿を愛おしく叙述しているとさえいえる。おそらく、それは、どちらも「主」(神)の訪れであるということに対する人の応対として、それ自体は、尊い行為という眼差しがこれらの叙述の中に含まれているのではないだろうか。しかし、そこで欠いてはいけない事柄、むしろ、中心にしなくてはならないことは、主のことば、教え、告知にあるということだろう。それは、我々の典礼奉仕における姿勢にも通用する。さまざまな行為や務め、役割のためにかいがいしく動く奉仕者や役員たちが一方ではいる。しかし、そのような奉仕の根源にあり、典礼祭儀において頂点にあるのは、神のことばであり、キリストの福音である。これが教会の典礼の姿でもある。アブラハムのエピソードも、マリアとマルタのエピソードも、遠い時代の一時の出来事ではなく、その叙述を通じて、今の教会の我々の姿さえも見えてくる。さまざまな奉仕の中でも、いつも神のことば、キリストの声を中心にするという姿勢をただしてくれよう。
 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(C年)●典礼暦に沿って』年間第16主日

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