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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2025年7月27日 年間第17主日 (緑)  
求めなさい。そうすれば、与えられる  (福音朗読主題句 ルカ11・9より)

人々の中で祈る女性
石棺彫刻(部分)
ローマ ラテラノ美術館 4世紀

 オランス(祈る人)という類型の造形表現がローマのカタコンベ(地下墓所)の壁画や石棺彫刻の一つの伝統であることは既にこの表紙絵解説でもたびたび紹介されている。キリスト教以前または周囲の諸宗教にも前例があるタイプであるといわれる。キリスト教的表現としても、その意味合いについての解釈がさまざまある。復活を待ち望みながら死んだ人の姿であると、楽園に達したキリスト者の魂を表現しているとか、なくなった人が生きている人のために執り成しの祈りをしている姿であるとか、天に迎えられた信者の喜びや感謝に満ちた心を表現しているなど、である。男性像もあれば女性像もある。単独で描かれる場合には(とくに女性像の場合)、祈る教会を象徴する図であると解釈されることもあり、またそれは教会の信仰にとってとても意義深い。この表紙絵の場合は、人々の群像の中にいて祈る人の姿勢を取っている女性の姿が描かれる。これは、シンプルにキリスト者の信仰心、その祈りの心の表現と受けとって考えていくのがふさわしい。
 このような初期キリスト教における造形表現を鑑賞しながら、きょうの福音朗読箇所ルカ11章1-13節を味わってみたい。端的に「祈り」がテーマである。まずイエス自身が祈っている姿(1節)、そして、「主の祈り」についての教え(2-4節)。これは、ルカが伝える主の祈りであり、教会の伝統となっているのはマタイ6章9-13節のほうである。ルカ版のほうがより古い文言を伝えるともいわれるが、主要内容は同じであることがわかる。その次に一つの譬え話が語られる(5-8節)。友にパンを求めたときに、それをあげない人の事例だが、それは、「しつように頼めば、……何でも与えるだろう」(8節)という考えを述べるための前提という位置づけである。
 本題は「そこで、わたしは言っておく」に始まる9節と10節にある。「求めよ、さらば与えられん」という文語体の格言として、一般にも知られている文言から始まる。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。イエスは、この教えをさらに父親と子どもの譬えによって展開しつつ、この事例を上回る、神についての教えとして「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)と結ぶ。
 このような重みあるイエスのことばのきっちりとまとめて理解するのには難しい面もあるが、根本には、神に求めることがむなしくなることはなく、むしろそれを上回るほどに与えられるということが明確に語られている。神への信頼と、神に祈りもとめることへの、そしてそのような生き方をすることへの力強い呼びかけが、ここにある。
 このことを踏まえて考えみると、キリスト者が信仰者であるということは、考え方や価値観の範囲に終始することではなく、まったく具体的な神との交わりにある。主が教えてくれた祈り――その代表が「主の祈り」――を日々、御父にささげていくこと、そのようにして、一人ひとりが神のみ前にいつも立ち、神が与えてくれることも誠実に受けとめ、そこで求められることにも応えていくというというその交わりは生活のあらゆる場面に伴われ、またそこで展開される。そうした日常生活、社会生活におけるキリスト者の姿、まさしく祈る人としての姿を、表紙絵のような作品は、よく写し出しているといえるだろう。
 第一朗読の創世記18章20-32節は、ソドムの町に降った神の罰という出来事に目が行くが、この日の福音との関連でいえば、アブラハムが神に繰り返し、切実に祈り求めた姿にあり、またその求めに応じた神の対応、その両者の交わりにあるといえる。主題句に挙げられている句「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください」(30節より)の中の「主よ、……させてください」ということばは、ミサの祈りの中にも出てくる「主よ」「神よ」という呼び求めのことばの先駆にあたる。
 これをヒントにして我々としては、ミサの式文における「父よ」「主よ」「神よ」という呼びかけ、呼び求めのすべてを思い起こすことが大切であろう。教会においては、イエス・キリストがつないでくれた御父である神と我々との対話と交わりが、典礼として形作られ、この祈りの営みが保ち続けられている。きょうのイエスの教えは、教会にとって、キリスト者にとって、一人ひとりの日常の祈りへの励ましであるとともに、共同体としてささげる典礼の祈り、その営みに対しても、しっかりとした導きである。その祈りが“わたしたちの主イエス・キリストによって”ささげられる”のは、我々キリスト者が「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられた」(コロサイ2・12=きょうの第二朗読冒頭)からである。
 「求めなさい。そうすれば与えられる」(ルカ11・9)というこのイエスのことばに、人間の最も深刻な求め(罪からの救い)に対して、神がひとり子を遣わしてこたえてくれたことへの暗示があるとさえ、我々は考えるべきだろう。「罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださった」(コロサイ2・13)という使徒のことばは、やはりきょうの福音とも深く結びついている。
 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(C年)●典礼暦に沿って』年間第17主日

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