2025年10月5日 年間第27主日 C年 (緑) ![]() |
![]() 使徒像 復活ろうそく台の浮き彫り ドイツ イェリコヴのプレモントレ会聖堂 1160 年頃 復活ろうそく台の装飾という珍しい部分での浮き彫り作品である。八角形の台の各側面に、教えを語るイエスと数名の使徒の像が刻まれているという。高さはわずか12センチの使徒像だが、表紙に示す作品でも、頭髪や衣服の襞などが細かく描かれている。真正面を向いた眼差し、きりっと閉じた口、手を合わせて前に向けているところに、イエスの教えを真正面から受け止めて拝聴する姿勢が感じられる。このような作品を通して使徒の思いに心を向けつつ、きょうの聖書朗読箇所に注目しよう。 きょうの福音朗読箇所はルカ17章5-10節である。その冒頭で、使徒たちは「わたしどもの信仰を増してください」(5節)とイエスに願いを告げる。それは、使徒として生きていく姿勢についてイエスが教えるためのきっきっかけとなる。イエスは、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」(6節)、彼らの言うことが実現されると答える。からし種の一粒ほどに小さい信仰があれば、というところに、信仰を増してください、と願う使徒たちに対する鋭い問いかけがある。すでに自分たちには信仰があると思っているのか、そもそも信仰があるのか、という問いかけである。きょうの福音朗読の主題句が端的に「もし、あなたがたに信仰があれば…」となっているのも、ここでの教えの意味のとらえ方を示していると言えよう。 続く、主人と僕(しもべ)の譬えを含む話(7-10節)は、僕は命じられることを果たすのが本務であり、そのことに対しては謙遜であるようにという訓戒になっている(10節参照)。弟子たちの「信仰を増してください」という願いに潜んでいる一種のおごりが見抜かれており、弟子としての謙遜の姿勢、自分を低くして仕える姿勢が教えられているのであろう。 このような受けとめ方へのヒントを与えてくれるのが、第一朗読箇所のハバクク書1章2-3節、2章2-4節である。ユダ王国末期(紀元前600年頃)の預言者ハバククの書で、1章2-3節は、不法の横行、外国からの圧迫、高慢な者たちの所業に対して、神に助けを求める預言者の訴えを内容とし、2章2 -4節は、それに対する主である神の答えの箇所である。そこでは「定められた時」(3節)、すなわち「終わりの時」(同)に神の救いが「必ず来る、遅れることはない」(同)と力強く約束する主のことばである。そのために、「神に従う人は信仰によって生きる」(4節)ことが約束され、かつ求められている。 実は、この「神に従う人は信仰によって生きる」と新共同訳聖書で訳されている部分は、さまざまな訳がある。フランシスコ会聖書研究所訳(2011年。以下、フランシスコ会訳と略)では「正しい人はその誠実さによって生きる」となっており、新しい聖書協会共同訳(2018年)では「正しき人はその信仰によって生きる」となっている。つまり「神に従う人」という新共同訳は、いわゆる「義人=正しい人」という語の意訳である。そして、フランシスコ会訳が教えてくるのは、信仰は誠実とも訳され得る語であることである。この部分のフランシスコ会訳の注では、「『誠実』は、伝統的には、」『信仰』と訳されてきた言葉で、『アーメン』と同じ語根をもつ。ここでは、抑圧する勢力下に苦しむ時も神への不動の忠実、誠実を表す意味をもつと思われる」とある。このような含蓄を含む語が用いられていることを考えると、ここでの「信仰」には、神のことばに聞き従う忠実さ、誠実さ、言い換えれば、神への揺るぎない信頼を意味することが考えられる。それが神から見ての「義人=正しい人」ということになるのだろう。 いずれにしても、イエスに対して忠実な人、自らを低くし、イエス自身を受けとめ、受け入れる人というその態度の典型を、表紙のような使徒像に見ることが大切であろう。 ここでは、はっきりと、必ず来ると約束された神の救いを実現するのがまさにイエスであること、イエスが真の救い主であることへの気づきとイエスに従う決意が我々に求められている。神によって「定められた時」「終わりの時」がイエスのうちに既に来ているのに、自分の頭や心の中で、何か別の目標を想定して、それに向かって「信仰を増してください」と思っているとしたら、それは、大きな思い違いである。使徒たちには、主が我々の前に既におり、その派遣に応えて自らがなすべきことをなすことが求められている。 イエスの受難の死と復活を体験した使徒たちは、この教えの意味を深く悟ったに違いない。そのような使徒の覚悟と心境を、第二朗読箇所の二テモテ書1章6 -8、13-14節。「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい」(13節)。新約聖書のギリシア語で信仰は、ピスティスという語であるが、この語にも「誠実」という意味が保たれている。信実と訳される場合もある。神への忠実、誠実(その源には、神自身が人類と結んだ契約への誠実がある)がいつも「信仰」という言葉において響いていることをこれからも考えていくことが大切だろう。 |