2025年10月19日 年間第29主日 C年 (緑) ![]() |
![]() 荘厳のキリスト ゲロ写本 ドイツ ダルムシュタット ヘッセン州立図書館 10世紀 荘厳のキリストと呼ばれるジャンルの写本画挿絵である。天上の玉座に座す全能の主としてのキリストを描き出すものである。西方中世では、聖書写本画や聖堂の扉の浮き彫りなど聖堂内陣の天井モザイクなど、さまざまな場に全能の主キリストの像が描かれていく。キリストは立っている場合もあるが、この写本画のように、玉座に座している場合もある。左手には神のことばを意味する書物があり、右手は神の右に座す方としての権威をもって祝福を与えるしぐさである。ただ、全体としてキリストの姿が若々しいというか、髭のない顔であること、また色彩の上で赤が基調となっているところに特徴がある。玉座の背景の円内は内側が青、周囲には、模様のある円形の帯となっている。この二重、三重に「円」が基本となっているところも、神の完全性の表現であることが感じられる。 その中の上下左右には、四体の福音記者のシンボルが配置されている。これも荘厳のキリスト像の不可欠の要素である。この絵の場合、上が鷲(ヨハネの象徴)、(向かって)右がライオン(マルコの象徴)、下が人(マタイの象徴有翼なので天使とも言われる)、(向かって)左が牛(ルカの象徴)である。このような象徴は、エゼキエル書1章5-10節に登場する四つの生き物、それを踏まえた黙示録4章6-8節の四つの生き物に基づいており、黙示録の生き物はイザヤ6章3節を踏まえて「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(黙示録4・8)と絶えず神を賛美している。これらを参照すると、荘厳のキリスト像における四福音記者のシンボルは、ここに座しておられる方が全能の主キリストであることをあかしするものとして配置されていると言える。このように、キリストの神秘をあかしする四福音書への崇敬がとても強いのが中世のキリスト教美術の大きな特徴である。 この表紙絵の掲載は、直接にはきょうの福音朗読箇所ルカ18章1-8節の末尾「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)を意識している。朗読箇所の冒頭には、イエスに従う弟子たちに対して、自らが絶えず神の御前にあることを意識し、神に信頼して「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(ルカ18・1)ことが教えられている。年間主日の聖書朗読は、イエスの宣教が終わりに近づき、将来における「人の子」(イエス・キリスト自身)の来臨に向けての教えに向かっていく。その教えはやがて始まる待降節第1主日の「目覚めていなさい」(マタイ24・42参照)の教えに見事につながっていく。このようなときに、「荘厳のキリスト」図は主の来臨へのイメージを広げてくれると同時に、その来臨を待ち望みながら、それに向かって生きていく我々の信仰生活、とくにミサを中心とした教会生活に対するはっきりとした意識をも養ってくれるものとなるだろう。 この日の福音朗読の中でイエスは、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」(ルカ18・2)を譬えで引き合いに出し、それを通して全体が逆説的な教え方になっていて、本旨としては絶えず祈ることを通して神を畏れ、人を人と思う生き方をするようにという教えである。その根本には、神はひたすら神に祈り求めている人を放っておかれることはない。神、いつくしみに満ち、あわれみ深い方である、という教え(詩編103,145参照)がある。 このような福音に対応しているのが、きょうの第二朗読箇所二テモテ書3章14節~4章2節である。パウロは、「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます」(二テモテ4・1)として「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい……」(4・2)と弟子たちに呼びかけている。これは、信仰者が、自らが神の御前にあることを自覚し、裁き主として来られるキリストを待ち望みながら、自分の使命に専念すべきことへの教えでもある。力強い励ましであり、促しの言葉である。 このようなイエスの福音の教えと使徒の教えを今、受けとめようとするとき、すべてがミサを通して、キリストが我々に呼びかけていることと重なってくる。 荘厳のキリストの像は、我々のミサにおいていつもともにいる主キリストの姿にほかならない。我々がミサの中で「父の右に座しておられる主よ、いつくしみをわたしたちに。ただひとり聖なる方、すべてを越える唯一の主、イエス・キリストよ、聖霊とともに父なる神の栄光のうちに」(栄光の賛歌〈グロリア〉)と賛美し、「聖なる、聖なる、聖なる神、すべてを治める神なる主……」(感謝の賛歌〈サンクトゥス〉)と賛美する主にほかならない。また、この主は、信仰宣言の「ニケア・コンスタンチノープル信条」で「天に昇り、父の右の座に着いておられます。主は、生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます」と宣言され、「使徒信条」で「天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者と死者を裁くために来られます」と宣言される方である。そのような主キリストの姿を、十字架のキリスト像とともに、はっきりと心にとどめ、意識することが大切である。 |