| 2025年10月26日 年間第30主日 C年 (緑) |
今や 義の栄冠を受けるばかりです (ニテモテ4・8より)栄光を受ける使徒パウロ モザイク イタリア モンレアーレ大聖堂 12世紀 きょうの表紙絵は、第二朗読箇所の二テモテ書4章6-8、16-18節にちなんでいる。弟子のテモテに宛てて、殉教の覚悟を告げる内容である。その中で、パウロは、信仰を守り抜いてきたという自覚のもと「今や義の栄冠を受けるばかりです」(8節)と語る。モンレアーレ大聖堂のモザイクには、そのようなパウロの姿が十字架のキリスト像を覆うように描かれている。その姿は、左手には聖書を抱え、右手は祝福を示すような、全能のキリスト像と同様である。主キリストからの委託を受けた使徒の使命は、まさにキリストの使命を受け継いでいくものであることがここには示されている。 このパウロの手紙の内容は、きょうの福音朗読箇所と第一朗読箇所を貫く一つのテーマである謙虚に祈る態度ということとは、直接にはつながっていないのかもしれない。二テモテ書の朗読も主日朗読C年の年間第27主日から第30主日までの準継続朗読であって、さしあたり、福音の内容と主題的に関連づけられているわけではない。しかし、キリストへの信仰を根幹とする使徒の手紙には、福音の主題と必ずつながるところがある。きょうの場合、それは、上に引用した「義の栄冠」ということばにあるのではないだろうか。 この句の「栄冠」は、究極的には、信仰を守り抜いた人(第二朗読箇所中の二テモテ4・7参照)に約束される神の国や永遠のいのちを比喩的に示すものだろう。この場合「義」とは、信仰を貫くこと、信仰を守り抜くこと、信仰に生きることを意味している。直接には“正しさ”を指すこの言葉は、“信仰”という語に含まれる“忠実”“誠実”とも重なってくる。パウロが「主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(二テモテ4・8)と語るのがこの「義の栄冠」である。 この「義」という言葉が、実はきょうの福音朗読箇所にも登場する。この箇所で、イエスは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」(ルカ18・9)に対して、ファリサイ派の人と一人の徴税人の譬えをもって教える。ファリサイ派の人が自分の態度や行いを心の中で勝ち誇ったように語るのに対して、徴税人は、自分の罪を悔い改めて、そのしるしとして「胸を打ちながら」(13節)、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(同)と祈るのみである。イエスは、「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」と宣言する(14節)。“義とされる”、つまり“神から正しいと認められる”のは、そのような自らの罪を素直に悔い改める謙虚さ、へりくだりである。言い換えれば、それこそが神の前での誠実さであり、信仰的態度だということになる。 このような謙虚な人の祈りをこそ、神は聞き入れ、行いをもって応えてくれるということは、旧約以来、聖書の一貫した教えであり、信仰であることを、第1朗読のシラ書(35・15b-17、20-22a)は伝えてくれる。「謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けていき、それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、正しい人々のために裁きをなし、正義が行われるときまで」(21-22a節)と、ここでも正しさという主題が貫かれている。いわば「義」に注目すると、見事にきょうの三つの朗読がつながってくるのである。この主題は、全体として、主の来臨に向けての備えという意味で、年間の終わりの主日の特徴を示している。 このような主題は、我々のミサ参加にとっても示唆的である、回心の祈りから「いつくしみの賛歌」への展開は、まさしくきょうの福音の譬えにおける徴税人の態度と結びつく。また、主の祈りに続く祈りの中の「(司祭)わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」-「(会衆)国と力と栄光は、永遠にあなたのもの」という部分も、きょうの二テモテ書もおける「主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(二テモテ4・8)から「主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(同4・18)までの気持ちの流れと重なっていると言えよう。ミサの祈りは、キリストに従う弟子たち、キリストの使命に結ばれた使徒的な民の祈りにほかならない。 |