| 2025年11月16日 年間第33主日 C年 (緑) |
忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい(福音朗読主題句 ルカ21・19)使徒ペトロの逮捕 石棺彫刻 フランス アヴィニョン ラピデール美術館 4世紀 きょうの表紙絵には、使徒ペトロの逮捕を描く古い石棺彫刻が掲載されている。ペトロの逮捕に言及するのは使徒言行録12章2-4節で、それが、特にきょうの聖書朗読箇所で読まれるわけではない。どこにそのつながりが考えられているかというと、題字に引用された福音朗読主題句「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(ルカ21・19)が含まれている、イエスの長いことばの文脈(ルカ21・10-19)全体である。 そこでは、世の終わりの前の天変地異が起こるさらに前のこととして、「あなたがた」(つまりイエスの弟子たち)に対して迫害が起こり、彼らが逮捕され、裁判の場に引っ張られることなどを予告しているところである。これらの出来事こと、「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」(21・13)とイエスは告げている。このことばが、実際に弟子たちを支え、導いていくことになる。そして、その殉教の模範がイエス自身の受難であることは言うまでもない。このような、きょうの福音と使徒ペトロの逮捕の姿の関連づけを考えつつ、きょうの聖書朗読全体に目を向けてみよう。 福音朗読箇所ルカ21章5-19節が示すイエスのことばの内容は、きわめて現実的である。世の終わりに先立つ現象として、戦争や暴動(9節)、民と民、国と国の敵対的蜂起(10節)、大地震、飢饉、疫病、天に現れる異常現象(11節)が言及される。イエスの時代だけでなく、その後の歴史においても、さらに現代においても身近な現象ばかりでる。「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」(12節)と迫害が起こることを告げるイエスは、さらに、「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる」(16節)とまで語る。 あれほどの大きな災厄よりも前に迫害や裏切りが迫るという語り方は、人間の間での人間自身によって起こされることのほうがどれほど深刻な苦しみをもたらすかを物語っている。実際、イエス自身が弟子の一人から裏切られる。それがまさしくイエスの受難の始まりであった。4福音書すべての証言するところである(マタイ26・47-56;マルコ14・43-50、66-72;ルカ22・47-53;ヨハネ18・3-12)。裏切りの現象として、あのペトロの否認さえもある(マタイ26・57-58,69-75;マルコ14・53-54;ルカ22・54-62;ヨハネ18・15-18,25-27)。 イエスは、そうした迫害や裏切りの近接に対して、それらが「あなたがたにとって証しをする機会となる」(13節)と告げる。そして、そのことのために、「反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」(15節)と語り、イエス自身が自らの力や言葉や知恵を授けてくれることを約束する。これ以上の励ましはなく、励ましという以上の使命の授与であるだろう。 弟子たちにはひたすら「忍耐」(19節)を呼びかける。苦難を耐え忍ぶ忍耐の根底には、神に信頼し続ける不動の心がある。忍耐という態度は、消極的な態度ではなく、積極的な信仰的行動、信仰をもって生きること、神とともに生きることを意味するようになる。これがキリスト教の一つの特徴でもあろう。 初代教会で、この忍耐を教えるために、いわば逆説的な教えとなっているのが、きょうの第二朗読箇所の二テサロニケ書3・7-12)である。きわめて身近な戒めが含まれている。終末がどうせくるなら、今の生活などどうでもよい……という、ありがちな態度に対して、それは怠りだと告げている(11節参照)。「落ち着いて仕事をしなさい」(12節)という呼びかけのうちに、神に信頼し続け、心を乱さずに日常を送ることのうちに信仰者らしい生活態度があることが示されていよう。そのためには、「わたし」(つまり使徒)を模範にするように、使徒に倣うように告げられるのは、使徒のうちに、主の到来に向けての信仰の忠実と希望と忍耐が確立されていることを表明するものだろう。 こうした福音や使徒書の内容を念頭に置いてみると、第1朗読箇所マラキ書3章19-20節aの内容がさらに味わい深い。この預言は、真っ先に「見よ、その日が来る」(3・19)と告げる。主が「到来するその日」(同)のことである。それは、裁きの日であることが「炉のように燃える日」(同)からわかる。この裁きにおいて、「高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる」(同)と宣告される。それに対して「わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る」(20節a)とされ、両者の対比が際立たせられる。 「義の太陽が昇る」ということが救い主の到来のイメージとなるのも、このマラキの預言の重要な点である。教会においては、「義の太陽」がイエス・キリストの意味を考える重要な導きとなっていき、たとえば、キリストの復活の日である日は「主の日」は終末の主の来臨に向かっていく日という意味合いが強いが、他方で、「日曜日」つまり「太陽の日」であることも深く考えられていくようになる。古代教会において太陽崇拝に関係のあるローマやエジプトの祭が降誕祭、公現祭の成立のきっかけとなっていくのも、また、東という太陽の昇る方角が古代教会の入信典礼や聖堂建築において重要視されていくことも、それに関連している。キリスト教が全世界に広められていく過程で、大きな役割をもつ「義の太陽」のイメージである。闇を照らし始める夜明けの太陽など、現代の我々にとっても、キリストのことを考える十分なヒントであり続けている。 |