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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年03月14日  四旬節第4主日  B年(紫)  
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された (ヨハネ3・16より)

父である神と十字架のイエス
テンペラ画 祭壇三面画中央
ベルリン ダーレム博物館 13世紀

 きょうの福音朗読箇所ヨハネ3 章14-21節では、イエスの全生涯、そしてとくに十字架での出来事を思い起こさせながら、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(16節)と語る。父である神とその独り子との関係の中で、その両者のみわざとして、救いの出来事が語られ、そして独り子キリストへの信仰が呼びかけられる。いわば三位一体の神秘としてのキリストの出来事が語られているともいえる。聖霊は言及されていないが、21節の「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになる」の中の「真理」や「神に導かれて」という語句によって、ヨハネ福音書が「真理の霊」(ヨハネ14・17:15・26;16・13参照)と語る聖霊が暗示されているといえよう。
 第2朗読のエフェソ書からの朗読(エフェソ2・4-10)も同じ趣旨の文章であり、イエスの十字架の出来事の背後にある父である神の御心へ、思いを向けさせられる。
 そのことを表紙絵とともに深めていこう。この絵は13世紀に作られた祭壇三面画の中央の部分である。元来はゾーストという町の聖マリア教会にあったものという。(向かって)左面にはマリア、右面には使徒ヨハネが描かれている。十字架の脇にマリアとヨハネを描く磔刑図の伝統を前提とするものである。
 この中央の絵がユニークなのは、伝統的磔刑図を三位一体の神の顕現として受けとめ、描き出しているところである。それは三位一体に関するもう一つの絵画伝統、すなわち、御父がイエスの十字架を抱えながら玉座に座している、いわゆる「恩恵の座」と呼ばれる型の絵を一つに融合したものである。
 三位一体のうちの聖霊もしっかりと描かれている。イエスの十字架上の銘(INRI)の上の部分、つまり御父の胸の位置の円の中に描かれる白い鳩である。かなり図案化されているともいえるが、いずれにしても、十字架の出来事を三位一体の神のみわざ、その現れとして描いているという意味では、ヨハネ福音書、ヨハネの手紙、またパウロの手紙を深く受けとめ、神学的な黙想を踏まえた作品だといえる。
 古代教会のキリスト教美術から中世の写本画挿絵に至るまで、主である神、そして父である神自身を具象的に造形化することは基本的になく、先週も見たように、神の右の手、あるいは栄光の雲といったもので暗示的に示すことが常であった。中世後期頃から次第にこのような御父である神をその威厳ある父像として描き出すことが新たな流れを造っていく。超越的な存在である神をこれほどまでに聖書が語る「父」像で具象化することに抵抗感を覚える向きもあるだろう。しかし、あくまで聖書的が告げる御父としての神という理解を図像的に表現したのであり、その人間的な具象性において問いかけるべきものではない。
 この絵の御父が、十字架を抱き抱える玉座の神であること自体、御子の十字架死によるあがないの根源にあるものを示している。十字架をキリスト教の当然のシンボルのように思っている我々としては、この出来事が根本的に御父の計画であることを、十字架のイエスのうちに、御父のみ心が完全に示されていることを確かめるために、表紙のような絵画作品がよい刺激になるのではないだろうか。
 このような絵には、叙唱の賛美がふさわしい。たとえば日本の『ミサ典礼書』で、年間主日のミサの叙唱として編成されているものが端的に、ミサで祝われる根源的な神秘を次のような賛美のうちに告げている。
 年間主日三の叙唱「聖なる父、全能永遠の神、主・キリストによっていつもあなたをたたえます。あなたはすべての人を救うために御子をこの世にお遣わしになり、人となられた御子は、その生と死を通してわたしたちにいのちをもたらし、死の淵に沈んでいた人類を解放してくださいました。み前であなたを礼拝する天使とともに、救いの恵みをたたえ、わたしたちも感謝の賛歌をささげます。」
 年間主日五の叙唱「聖なる父、全能永遠の神、主・キリストによっていつもあなたをたたえます。主・キリストは新しい人の初穂として人々の中に生まれ、十字架の苦しみによって罪を滅ぼし、死者のうちから復活して永遠のいのちへの道を開き、あなたのもとに昇って天の門を開いてくださいました。すべての天使と聖人とともに、あなたの栄光をたたえ、わたしたちも終わりなくほめ歌います。」
 恩恵の座にいる御父によって十字架のイエスが受けとめられているこの絵には、きょうの福音朗読箇所冒頭からの部分もまた、よく響き合う。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように(民数記21・4-9参照)、人の子も上げられなければならない」(ヨハネ3・14)。それは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(同16節)というところである。絵の中の御父の赤い衣が感じさせる、恩恵と愛に包まれている、十字架のイエスの姿は、すでに永遠のいのちの象徴なのである。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

十字架
 十字架刑とは何でしょうか。ただ殺人で死刑の判決を受けてつけられるというものではありません。当時は、誰かを殺したとか、誰かのお金を盗んでしまったというようなことであれば十字架につけられることはありません。十字架刑というのはローマ皇帝への反逆罪に対して、「絶対にこういうことをやるな」という見せしめのために科されるのです。これはローマ皇帝の権威を上げていくためのものでもあり、同時に人々を黙らせ、押さえつけていくための手段でもありました。

星野正道 著 『いのちに仕える「私のイエス」』「6 しらどり」 本文より

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