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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年08月08日  年間第19主日  B年(緑)  
御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」(列王記上19・5より)

主の御使いとエリヤ 
ディルク・ボウツ画 
ベルギー ルーヴァン サン・ピエール教会 15世紀

 周知のように、B年の年間第17主日から21主日まではヨハネ福音書6章が読まれる。イエスが自分自身を「天からのパン」「命のパン」であるとあかしする内容を中心としたキリストの神秘、そして聖体の秘跡に関する教えが続く。特に、きょうの福音朗読箇所ヨハネ6章41-51節の末尾51節では、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」として、「わたし」すなわちイエス自身についての教えと、「わたしが与えるパン」すなわち「わたしの肉」という表現で、聖体についての教えが集約されている。同時に、その直前で、「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった」(49節)と、旧約の民の出来事が想起されている。旧約の出来事とイエス・キリスト自身と、そして聖体の秘跡という三つの事柄の関係が鮮やかに示される箇所である。
 このことを踏まえつつ、表紙絵では、第1朗読箇所の列王記上19章4-8節にちなんで、エリヤの出来事を描く絵が掲げられている。命を狙われて絶望に瀕していたエリヤが主の御使いによって「起きて食べよ」と告げられ、パン菓子と水によって元気づけられるという場面である。主の御使いによって与えられた食べ物と水、そして「起きて食べよ」という呼びかけが、キリストの体と血によって神の民が養われることを意味する聖体の秘跡を前もって示すしるし(「予型」と呼ばれる)と、教会では古くから考えられている。
 この絵の作者は、15世紀の初期フランドル派の画家ディルク・ボウツ (1410年か1420年頃生まれ、1475年没。オランダ人である彼の名前は、ブーツなど邦訳文献ではさまざまな表記がある) である。この絵は、彼がルーヴァンの教会用に制作した祭壇画の一部である。全体が「聖体の秘跡」と題される祭壇画の中央には最後の晩餐の図、両脇に左右二段ずつの合計4場面がある。それぞれが聖体の予型となる出来事で、(向かって)左側上段は、サレムの王メルキゼデクがパンとぶどう酒をもってアブラム(アブラハム)を迎え、祝福する場面(創世記14・17-20)、下段は、出エジプト記12章1-28節に関連してイスラエルの民の過越祭の食事の光景、右側上段には、荒れ野でイスラエルの民が天からの食べ物マナで養われる場面、そして、下段にエリヤが御使いによって力づけられる絵である。
 エリヤはキリストを前もって示す人物のひとりである。荒れ野に入って歩き続けた40日40夜は、イエスの荒れ野での40日の試練(マルコ1・12-13;マタイ4・1-11;ルカ4・1-13参照)の予型の一つとみなされる。40日40夜は、モーセが幕屋の律法を受けるためにシナイ山にいて断食をした日数と同じ(出エジプト記24・18、申命記9・9,18参照)であるだけでなく、40という数字は、もちろん、イスエラルの民が荒れ野を旅した年数(申命記8・2 参照)で、苦しみや試練に関連すると同時に、神からの導き、保護、神への回心にもつながる象徴的な数である。イエス自身、荒れ野でサタンの誘惑にあう日数(マタイ4:2; マルコ1:13; ルカ4:2 ) であるところに、その意味は頂点を極める。受難予告の始まりとともに起こったイエスの変容のとき、両脇にモーセとエリヤが現れたことには試練と断食の40のつながりが重要な要素となっている。このときの試練・飢え・断食は、人は神によって養われて生きるということを徹底的に体験する時間で、われわれの四旬節の原型もここにある。
 絵では、近代的な遠近法による立体的空間の奥行きの中で、エリヤへの御使いの訪れが描かれている。御使いの手のしぐさが「起きて食べよ」(列王記上19・5,7)ということばを示す。エリヤの頭のほうに、水の入った器とパンが見える。とすると、ここは二度目に眠ったエリヤと二度目に現れた御使いを描いているものとも思える。画面の右奥には、杖をついて山を上っていくエリヤが描かれており、結局、この絵の中には、物語の経過のすべてが盛り込まれていると考えられる。強調されているのは御使いの姿である。神に力づけられてこそ預言者は歩むとのメッセージが貫かれている。ちなみに、後にエリヤは再来が待望され、洗礼者ヨハネはそのエリヤの再来とも思われた。この二人が前もってその到来を示したところのイエスにおいて、エリヤの生涯に起こった出来事の意味が完全に明らかになる。そして、今、キリストの弟子として、我々もエリヤの歩みを続けていると言えるかもしれない。ミサを通して、我々は神の御使いによって(つまり神によって)いつも、「起きて食べよ」と呼びかけられ、聖体によって(つまりキリストによって)つねに養われているのである。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

穀物と祭り
 天候などに大きく左右される農業生活では、ひと口のパンを食べるまでの労働は大変なものでした。耕して、種を蒔いて、鍬を入れて、刈り取って、脱穀して、ふるいにかけて、粉を挽いて、またふるいにかけて、練って、焼いて、これらすべてが順調に進んでようやパンを食べられました。

山口里子 著『食べて味わう聖書の話』「5 贅沢と貧困、いのちのパンの大切さ」本文より

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