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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年12月4日 待降節第2主日 A年 (紫)  
悔い改めよ、天の国は近づいた (福音朗読主題句 マタイ3・2より)

神の小羊キリストを示す洗礼者ヨハネ
柱彫刻
フランス シャルトル大聖堂 13世紀
 
 待降節第2主日の福音朗読箇所は、マタイ3章1-12節。忽然(こつぜん)と洗礼者ヨハネが姿を現し、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と告げる。そのヨハネは、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる」(マタイ3・11)としてイエスの、あの時の現れと福音宣教の開始を予告する。このような展開の中で、待降節の二つの特質が示される。「待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある」(「典礼暦年に関する一般原則および一般ローマ暦」39項)、という点である。この「神の子の第一の来臨」として、イエスの誕生の出来事の記念に入るのは、実は待降節第4主日からであり、待降節第2、第3主日は、洗礼者ヨハネによるイエスの到来へのあかしに集中している。神の子であり、救い主であるイエスの登場を予告し準備する預言者としての洗礼者ヨハネがクローズアップされるのはそのためである。いわば、イエスの生涯をさかのぼる形で「第一の来臨」が追憶されていくのである。
 このようにして、待降節で重要な役割を果たす洗礼者ヨハネをイメージさせる、シャルトル大聖堂の北側の扉の壁面を飾る彫刻をきょうは併せて鑑賞したい。神の小羊を抱えるその姿のうちに、イエスを抱え、その到来と、全生涯をあかしした洗礼者ヨハネの救いの歴史の中での使命が凝縮されている。
 「神の小羊」として、イエスをあかしするのはヨハネ福音書1章29節である。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」というところである(ちなみに、ヨハネ福音書1章29-34節はA年の年間第2主日で読まれる)。ただ、この「神の小羊」としてのイエス理解は、他の福音書にも全体として流れていることと考えられる。きょうのマタイ福音書の箇所に登場する洗礼者ヨハネと、その予告の意味を考えるためによいイメージを与えてくれる彫像だろう。
 マタイ福音書3章1-12節に沿って洗礼者ヨハネについて考えていこう。マタイ福音書は、彼について「預言者イザヤによってこう言われている人である」(3節)としてイザヤ書40・3節にあたることばを示す。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(3節)と。そして、「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(4節)と描写する。この風体は、エリヤを思わせるものである(列王記下1・8「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」参照)。洗礼者ヨハネが主の道を整える者であること、そしてエリヤに思わせる風体であることについては、イザヤだけでなく、マラキの預言を参照する必要がある。マラキ書3章1節「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」、そして、3章23節「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」である。この「大いなる恐るべき主の日」、すなわち神による最終の裁き、最後の審判に向けて、自分自身の総決算の悔い改めと、神への立ち返りを呼びかけるのが洗礼者ヨハネである。
 同時に、注目すべき驚くべきことがある。マタイ福音書が洗礼者ヨハネのことばとして記す「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3・2)は、イエスが宣教を始めるときのことばと全く同じだということである。「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」(マタイ4・17)。洗礼者ヨハネは、エリヤの再来とも思われ、また最後の預言者マラキのメッセージに続く、まさしく旧約の預言を集約するメッセージを告げたとすれば、同時に、すでにイエスの福音の先駆けともなっている。ここに、旧約と新約の架け橋となっている洗礼者ヨハネの姿がある。
 表紙のヨハネが抱える小羊も、旧約の献げ物の代表的な動物であった小羊に、あがない主としてのイエスの全生涯、そのいのちを暗示するものである。
 福音書が絶えず預言者のことばを引きながら、イエスの生涯を説き明かしつつ予告しているスタイルは、旧約から新約への決定的な転換と同時に、その歴史的なつながりの深さを示していく。きょうの第一朗読イザヤ書1章1-10節は、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」という預言をもって、その歴史の深さを語る。第二朗読のローマ書15章4-9節は、そのように聖書に深く潜心することの意義を語る。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」と。
 主の降誕を準備する待降節は、このように、神による救いの計画の深さ、神と人類との契約の深さと尊さに深く心を向けていく季節であり、そうしてこそ、キリストとの出会いの喜びが深められていくのである。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

 マタイは、ルカと異なり、具体的な生活指針を与えることなく、直ちに 「わたしの後から来る方」について語る(11-12節)。また9節には、自分は「アブラハムの子孫」であるとおごり、油断する者への警告が述べられる。「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。この警告の強調点は、血筋に頼み「アブラハムの子孫」だと誇ることの無意味さにある。

雨宮 慧 著『主日の福音──A年』「待降節第二主日」

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