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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2023年3月12日 四旬節第3主日 A年 (紫)  
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない (ヨハネ4・14より)

サマリアの女との対話
モザイク 
ラヴェンナ サンタポリナーレ・ノオヴォ教会 6世紀
 
 サマリアの女との対話として知られるヨハネ4章1-42節がきょうの福音朗読箇所である。四旬節の朗読配分が入信志願者の直前の集中的な教育のために選ばれていた古典的配分を踏まえながらこの四旬節第3主日は「水」、第4主日は「光」、第5主日は「復活」をテーマにして洗礼の意味を説き明かすという流れにもなっている。表紙の絵はイエスとサマリアの女の出会いの光景を描く。弟子が後ろにいるのは絵の表現のみの趣向である。
 きょうの福音朗読箇所は、長い場合、ヨハネ福音書4章5節から42節までと、本来はとても長い。このイエスとサマリアの女の出会いと対話の叙述はさまざまな歴史的背景がある。ユダヤ人とサマリア人は、ともにアブラハム、イサク、ヤコブを祖としながらも王国時代の歴史の中で反目し合ようになり、サマリア人はゲリジム山を聖所として礼拝していた。そのうえ、ここに登場する女は、罪深い女であったことも話の前提にある。普通、水汲みの時間ではない、正午ごろ(ヨハネ4・6)に水を汲みに来るのは人目を避ける必要があった人だということであり、このことは、16節から18節の対話でわかる。この女は5人の夫がいたが、今、連れ添っているのは夫ではない。そんな女に、イエスは「水を飲ませてください」(7節)と声をかける。このことばがユダヤとサマリアの対立を乗り越えていく始まりとなる。
 その対話の中で、イエスの自らをあかしする。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)と告げるイエス。これに対して「主よ」と呼び始める女。礼拝する場所をゲリジム山としていたサマリア人と、エルサレムを中心とするユダヤ人の反目を超える、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」(23節)と告げるイエス。このイエスが、到来を約束されていた「キリストと呼ばれるメシア」であることに気づいていく女(25節以下)――。
 イエスのことばは、どれも深い味わいに満ちている。一つに、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」ということばは、ヨハネ6章の「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしたちはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6・54)、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたその人の内にいる」(同6・56)に直結する。水、肉、血が、イエスとの交わりを象徴するものとなり、洗礼の秘跡、聖体の秘跡につながっていく。また「霊と真理をもってするまことの礼拝」(ヨハネ4.23参照))ということも、礼拝所の分裂、信仰共同体の分裂の克服という意味をもちつつ、神殿や聖所にとらわれない神と人の交わりのあり方を「霊と真理」に関連づけて語っていることがわかる。聖霊についての教えともいえよう。
 きょうの朗読箇所ではないが、一コリント書でパウロの語る「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(一コリント6・19)が「霊と真理によってするまことの礼拝」ということばを解説する好適の箇所であろう。
 このモザイクの中のイエスは、緑色の岩の上に座している。対立していた二つの山、サマリア人にとっての聖所ゲリジム山と、ユダヤ人にとっての聖地(シオンの丘とも呼ばれ山とも呼ばれる)エルサルムを超える、新しい礼拝の場が始まっており、井戸から汲みあげられて桶からあふれ出るほどの水は、イエスが与えることになる新しい永遠のいのちをすでに彷彿とさせる。イエスの右手は、「婦人よ、わたしを信じなさい」(ヨハネ4・21)と告げている。このことば、二人の範囲を超えて、我々に向けられたメッセージでもある。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(A年)●典礼暦に沿って』「四旬節第三主日」

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