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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2023年3月26日 四旬節第5主日 A年 (紫)  
わたしを信じる者は、死んでも生きる  (ヨハネ11・25より)

ラザロの復活
二つ折り書き板装飾
アトス ヒランダリ修道院 14世紀
 
 きょうの福音朗読箇所は、長い場合はヨハネ11章のラザロの復活に関する叙述全部(1 -45節)を読むものだが、短い場合はその抜粋になる(3-7 節、17節、20-27 節、33節b -45節)。現在のA年の四旬節第3~5主日の福音朗読は、古代教会で入信の秘跡への導きとして用いられていた伝統的な箇所を反映するものである。四旬節第3主日のサマリアの女との対話(4章)、第4主日の生まれつき目の見えない人のいやし(9章)に続き、きょうもヨハネ福音書からの朗読である。入信者が招き入れられる新しい永遠のいのちのシンボルとして第3主日では水、第4主日では光が主題となり、きょうの第5 主日は、その頂点として、ラザロの復活が新しい永遠のいのちを直接予告するシンボルとなる。
 キリスト教美術においても、ラザロの復活は、3世紀以降繰り返し描かれてきた。3-4世紀におけるカタコンベ(地下墓所)の壁画や石棺彫刻で、この場面が描かれたのは、死後の復活を待ち望む心のもとで、その予告でもあり、確証でもある出来事として祈りをこめて造形されていたのだろう。キリストの生涯の諸場面を連続して描く作品では、東方・西方ともにイエスの受難と復活に向かう一連の出来事として、洗礼と変容に続いて、ラザロの復活はエルサレム入城の直前に配置されることもしばしばであった。
 ちなみに、最初は、ラザロが生きている姿もしくは裸の姿で描かれることもあったというが、4世紀初期から、ラザロが亜麻布か死者の包帯でくるまれている姿で登場するようになる。これは、エジプトのミイラにヒントを得た描法ともいう。ミイラという遺体保存法には、死後の永生の観念が含まれていると考えられており、ヨハネ福音書の「手と足を布で巻かれたまま」(11・44)という描写を、全身が白い布で包まる姿で描くところに、ミイラのイメージが流れ込んだ可能性もある。キリスト教においては、この衣の白さは、変容の場面とも同様に、復活のいのち、神のもとで永遠に生きることを示す大切な色になっていく。
 この二枚折り書き板の絵でも、ラザロを包む布の白さがひときわ鮮やかで印象深い。イエスの下衣の白との呼応関係が興味深い。神の権能を示す祝福のしぐさは、ここではさらに「ラザロ、出て来なさい」(43節)という、イエスの大声の叫びを具象化する。この叫びは、天地創造のときの神の「光あれ」(創世記1・3)という呼び声を思い起こさせる。それはまさに「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」(ローマ4・17)の声である。この絵におけるイエスとラザロの向かい合った緊密感のある姿のうちに神と人との関係のさまざまな歴史を重ね合わせて黙想することが大事である。
 手前に見える、ラザロの姉妹マリアとマルタの表情は悲しげである。この奇跡のきっかけになった二人の悲しみとイエスへの一途な嘆願の気持ちが読み取れよう。福音書の叙述でいえば、前段に物語られる内容のすべてをこの姉妹の姿のうちに読み味わえる。画面の手前とその後ろの二段構えで、福音書の長い叙述が示す時間経過が凝縮されている、という点、味わうべき大きな特色である。
 この出来事の不思議さに対して、真ん中にいる従者やイエスの後ろにいる弟子の驚きと畏怖が入り交じるような表情も見ておきたい。この出来事に対する人間の反応を代弁しているとも思える。そして、この出来事さえも、イエスの死と復活の出来事に対しては、その予告のあかしにほかならない。真に呼びかけられているのは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(11・25)というイエスの、信仰への問い求めである。信仰の決断が神自身の力の降臨に自らをゆだねる、一つの「飛び越え」であることが、ラザロの復活の福音、それを造形化してきた教会の絵画伝統を通じて、教え諭される。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(A年)●典礼暦に沿って』「四旬節第五主日」

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