| 2025年12月14日 待降節第3主日 A年 (紫) |
来るべき方は、あなたでしょうか(マタイ11・3より)洗礼者ヨハネ ギリシア・イコン レックリングハウゼン・イコン博物館 17世紀 待降節の福音朗読の展開はある意味で独特である。どの年でも、待降節第2主日と第3主日は洗礼者ヨハネが登場する。イエスの第一の来臨と地上での福音宣教の始まりを準備し、また証ししたという意味で、我々の主を迎える準備を促すのである。先週の第2主日の福音朗読箇所マタイ3章1-12節は、まさしくその洗礼者ヨハネの登場の場面であった。きょうの第3主日の福音朗読箇所マタイ11章2-11節は、福音書の中盤における洗礼者ヨハネの話である。洗礼者ヨハネはすでに牢の中にいる。処刑されることを覚悟しながら、自分が予告した救い主がイエスであるかどうかの確認の問いかけを自分の弟子に託すところから始まり、その問いを受けたイエスは、ヨハネを「預言者以上の者」(9節)とし、自分に先立つ使者であることをマラキ書3章1節の引用とともに、告げている。そして、洗礼者ヨハネを最も偉大な者と称揚しつつ、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ11・11)と、神の国についての福音で締めくくっている。 洗礼者ヨハネに対する最大の賛辞の箇所のようでいて、彼によって予告された救い主であるイエス自身による救いの始まりの証言でもあるという意味で、きょうのこの日の福音において、救い主への予告が、救い主の現存に対する証しに移行している。それを示すのが、福音朗読箇所のイエスの教えにおいて引用されている「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(マタイ11・5)との部分である。 このことばには、イザヤの預言の複数の箇所が組み合わされている。一つは、きょうの第一朗読イザヤ書35章1-6a、10節の中の「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」(5節)、イザヤ29章18-19節「その日には、耳の聞こえない者が、書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒の闇を解かれ、見えるようになる。……貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍(おど)る」、イザヤ書61章1節のおける「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた」に続く「わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために」、イザヤ26章19節「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように」である。さらにきょうの答唱詩編となっている詩編146 の詩句「神はとこしえにまことを示し、貧しい人のためにさばきを行い、飢えかわく人にかてを恵み、捕らわれびとを解放される、神は見えない人の目を開き……」(6-8節より 典礼訳)などと広く響き合っている。まさしくここに預言者たちが予告し、イエス自身がもたらされた救いの「良い知らせ」=「福音」の根本的な意味が示されている。 そのように、救いの到来そのものがすでに告げられる日であるために、この待降節第3主日は、伝統的に「喜びの主日」(ラテン語では「ガウデーテGaudete」の主日)と呼ばれる。それはこの日の入祭唱に由来する。「主にあっていつも喜べ(Gaudete in Domino)。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5 典礼訳)である。その意味合いは、第一朗読箇所の冒頭(イザヤ35・1)の「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ、砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ」とも響き合う。降誕の喜びはすでに始まり、その展開として、待降節第4主日の福音、そして主の降誕の福音に連なっていくのである。 さて、こうした朗読箇所の確認と黙想を踏まえて、表紙のイコンを鑑賞しよう。そのような洗礼者ヨハネの姿を、キリストとの関係で黙想するために、本作品はふさわしい。元来は、「デイシス」と呼ばれる図の一部にあたるものである。「デイシス」とはキリストを真ん中にして人々の願いをキリストに取り次ぐ洗礼者ヨハネ(向かって右側)と聖母マリアを両側に配置する構図の絵をいう。ここでのヨハネが(向かって)左向きなのはそのためである。そのまなざしはキリストに向かっている。手のしぐさは嘆願の取り次ぎを意味している。 先週の福音朗読箇所で、ヨハネが「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる」(マタイ3・11)と予告しているように、キリストを準備し、キリストに仕える存在である。このイコンの部分では、見えていないキリストに向かう、彼のまなざしは、とても強い。より優れた方、救い主に対する確信がみなぎっていると感じ取ってもよいだろう。主の光を受けて、彼の顔も輝いている。神の救いの計画の中で、神のみ心に従って役割を果たした人物としてしっかりと位置づけられている。 考えてみると、「デイシス」におけるキリストに対する洗礼者ヨハネとマリアの配置は、待降節第2主日、第3主日における洗礼者ヨハネの役割と待降節第4主日から主の降誕の福音、主の公現の福音に至るまでのマリアの役割を思うのにふさわしい。このことは、ミサ典礼書の中の叙唱「待降節 二――降誕の期待」がいみじくも示している。「聖なる父、全能永遠の神、いつどこでも主・キリストによって賛美と感謝をささげることは、まことにとうとい大切な務め(です)。主・キリストをすべての預言者は前もって語り、おとめマリアはいつくしみをこめて養い育て、洗礼者ヨハネは、その到来を告げ知らせました。キリストはいま、その誕生の神秘を祝う喜びをお与えになり、わたしたちは絶えず目ざめて祈り、賛美しながら主を喜び迎えます。神の威光をあがめ、権能を敬うすべての天使とともに、わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います」(2022年版『ミサの式次第』176-177ページ)。ここで、「洗礼者ヨハネはその到来を告げ知らせました」と訳されているところのラテン語原文を直訳的にすると「洗礼者ヨハネは、やがて現れるその方のことを予告し、そして、いまおられることを指し示しました」――この一文の中で、待降節第二主日おける洗礼者ヨハネの役割と、待降節第3主日における彼の役割が見事に要約されていると言える。そのことを思い起こしつつ、我々はまさしく「賛美しながら主を喜び迎えます」という姿勢に集中する。そのような気持ちを、ヨハネの姿とともに高めてゆこう。 |