| 2025年12月21日 待降節第4主日 A年 (紫) |
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい (マタイ1・21より)ヨセフの夢 ケルンで作られた朗読福音書 ブリュッセル王立図書館 1250年 ケルンにあるベネディクト会の大聖マルティン修道院で作られた朗読福音書の挿絵。きょうの福音朗読箇所マタイ1章18-24節を踏まえるもので、とくに、20節「主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい』」の箇所にあたる。このことばは、天使の右手から出ている帯に記されている(ちなみに絵の上にある本文は、この箇所とは異なり、マタイ3・7-12にある洗礼者ヨハネに関する箇所が記載)。 降誕との関係で描かれるヨセフの絵は、初期にはマリアの懐妊に胸中、疑念を抱く「ヨセフの疑い」といった主題の絵が多かったようである。これに対して、中世の写本画では夢の中のヨセフへのお告げの場面が増えてくるが、これにはマリアへのお告げ(ルカ1・26-38)の図が一つのモデルとなったようである。 マリアへのお告げの場面では、天使ガブリエルとマリアが出会っている様子で描かれるが、この絵のヨセフは天使が夢に現れた、とあることをヨセフの熟睡によって表現している。彼は、天使のお告げがなされるときには、そのことも知らずに、身体を天使とは反対の方向に傾け、熟睡している。この段階では、彼自身は、救い主の誕生という神からの介入の出来事を感知も察知もしていない。それは、ある意味で人間らしいあり方であろう。 ここに至るまでを描くマタイの叙述は、ヨセフの心模様におけるさまざまな綾を窺わせる要素に富んでいて興味深い。聖霊によってみごもったマリアのことを、ヨセフは、世間の反応を懸念して表ざたにしないようにし、ひそかに縁を切ろうとまで決心していた(マタイ 1・ 19参照)。それは、彼が神を畏れる人、「正しい人」(同節)であったことが理由であると、記されている。そこに、天使が現れて、彼にマリアを妻として迎え入れること、生まれてくる男子を「イエス」(「神は救う」を意味する名。この名は男子が救い主であることを示す)と名付けるよう命じる。この段階で、ヨセフの「正しさ」の土台であるユダヤ教社会や旧約の律法の枠組みは取り払われており、全く新たに、神自身の意志と計画が示されている。そのことに対して、ヨセフ自身が正しく(神のみ心にかなう)対応ができるであろうか、どうかが注目の焦点となる。 かつて、アブラハムの召命(創世記12章、そこではアブラム)のとき、アブラ(ハ)ムがそこで、なんら言葉で答えることもせず、「主の言葉に従って旅立った」(創世記12・4)とある。このことを想起させるかのように、ヨセフも夢の中の天使のお告げに対して、なんらことばで反応することはしない。福音朗読箇所の末尾24節では、「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」と記されるだけである。ヨセフは、神の意志を受け入れ、その計画にひたすら仕える人になっていく。淡々とした叙述の中で、ヨセフにおける決定的な回心と信仰の成立が語られている。聖ヨセフの誕生である。こうして、ヨセフは、新しい契約に仕える正しい人として、神の民の父となっていく。ちなみに、マタイ福音書における朗読箇所の直前の箇所1章1-17節には、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1節)が記されているが、その末尾が「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(16節)となっていて、アブラハムからの系譜、救いの計画の歴史の中でのヨセフの位置が明記されている。 ちなみに、きょうの第二朗読箇所のローマ書1章1-7節では、御子キリストに対する根本的な使徒的証言が示される。「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」(4節)。この内容がマタイ福音書のきょうの箇所では、歴史的出来事の叙述として示されていると言える。ヨセフへのお告げの意味が「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」というイザヤ書7章14節(きょうの第一朗読箇所イザヤ7・10-14に含まれる箇所)にある預言の実現であると説かれ、「インマヌエル」が「『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1・23)と解説されているからである。 この「インマヌエル」のテーマは、もちろん、マタイ福音書の最後に記されるイエスの言葉「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)と呼応し、この福音書の教えの一つの柱をなす。マタイによる福音の要約である。神がともにおられる、という信仰の真実は、今や、イエス自身がともにいること、その“身”そのもの、そして聖体が示すものとなっていく。 絵の中のヨセフに戻ろう。寝床に横たわり、熟睡している姿は、実に穏やかである。それは、まだ信仰に目覚めずに眠っている姿というよりも、天使を通して伝わる神の祝福に浴している姿でもあるだろう。第二朗読箇所の末尾でパウロが告げる「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(ローマ1・7)という祝福の挨拶が真っ先に告げられている姿のようにも思えてくる。 ミサの中で繰り返される「主は皆さんとともに」の挨拶は、このような新約の神の民に対する使徒的祝福の挨拶を受け継ぐものでる。我々は、この挨拶のことばを心の眠りのうちに聴くであろうか、あるは目覚めて聴き、「また、あなたとともに」と応答するだろうか。眠りのうちにではあっても、それがヨセフの夢のように、新しい生き方へと導かれていく、神との静かな対話でありえたら素晴らしいだろう。そんな希望の黙想に誘われるかのようなヨセフの寝姿ではないだろうか。 |