| 2026年1月4日 主の公現 (白) |
主の栄光はあなたの上に輝く(イザヤ60・1より)東方の三博士の礼拝 祭壇画 ロヒール・ファン・デル・ウェイデン画 ミュンヘン アルテ・ピナコテーク 15世紀半ば 表紙絵は、15世紀に活躍した初期ネーデルランド派(フランドル派とも言われる)を代表するロヒール・ファン・デル・ウェイデン(生没年1399/1400~1464)の作品である。ドイツ、ケルン大司教区聖コルンバ教会の祭壇翼画。当時の画題としては「三王礼拝」と呼ばれるものである。 朽ちかけた小屋というべき建物の中央にマリアとマリアが抱く幼子イエスがいる。幼子が裸の赤ん坊として描かれるのは、14,15世紀の新しい主流である。その赤子を両手で受け取るように間近から見つめる一人の白髪の王がいる。この王の贈り物は見えていない。その後ろには一つの器を贈り物として両手で差し出す黒髪の王、さらにその後ろに、片手で器を持っている比較的若い王がいる。福音書の3人の学者が3人の王として解釈される伝統の中でも、老年、壮年、青年と各世代を代表する王という設定はこの絵でも生きている。 マリアの(向かって)左側には、赤子の寝床と思われる箱のようなものがあり、そこを覗き込むロバと牛(降誕図の古くからの提携要素)がかなりリアルに描かれている。そうなるとここの場面の不思議さが余計に強く感じられる、この小屋の右側には高い城の壁が見え、背景には、町や野などが幾重にも入り組んで描かれている。地上世界の意味合いとして描かれているのだろうが、現実的に考えると不思議な光景と言えるだろう。 いずれにしても、この絵の中心には、マリアに抱かれた幼子イエスにある。この幼子のマリア、ヨセフ、そして三人の王の眼差しがすべて集約されている。その意味で、やはり人となった神の御子への礼拝の場面でもあり、見ているものを、御子キリストへの礼拝へと招くのである。この幼子の裸の姿は、実は十字架にかけられる受難の予兆でもある。そのことがこの絵でも考えられており、この小屋の中心の柱の上のほうに白く小さく、十字架にかけられたキリストが描かれているのはそのためなのである。 祭壇画という場面においては、この幼子イエスと十字架磔刑の図と、祭壇に置かれる聖体の三つの姿が一つのキリストの神秘として統合されている。その味わいは限りなく深い。 さて、主の公現の祭日は、福音朗読箇所マタイ福音書2章1-12節で述べられている、東方の占星術の学者たちが幼子を礼拝した出来事を記念する。学者たちを意味する原語はマゴイで、ペルシアのゾロアスター教の祭司階級マギに由来し、ここでは天体観測と占星術の専門家として登場する。彼らの旅路、そして幼子礼拝に関する叙述の中で、救い主の輝きがイスラエル民族-ユダヤ人という枠を超えて他民族(異邦人)にも及び、さらに占星術を信奉する宗教心が神の御子イエスを礼拝する信仰へと導かれていくさまが印象深く物語られる。そこに、すべての人を救う神の子の栄光の現れがあるという意味で「現れ」(ギリシア語でエピファネイア、ラテン語でエピファニア)と端的に呼ばれる祭日である。これを訳して日本語では「公現」と呼ぶ。 礼拝に来た学者たちの人数をマタイは記さないが、三つの贈り物にちなんで三人、さらに学者ではなく王と考えられるようになる。第一朗読のイザヤ書の言葉「国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」(イザヤ60・3)といったイメージが作用しているのだろう。預言においては未来における救いへの待望ないし確約の言葉であったが、今や救い主イエスをあかしする言葉となっている。これが、学者たちの礼拝の旅路を王たちの行動として味わう一つのもとともなったのだろう。学者たちは、やがて王としてイメージされるようになり、画題としては「三王礼拝」が主流となっていく。さらにこの三人の王を老年・壮年・青年という三世代を反映するものとして描く描き方も生まれた。上述のように、その特徴はファン・デル・ウェイデンのこの見ることができる。 このような福音朗読箇所を第一朗読箇所(イザヤ書60・1-6)、答唱詩編(詩編72・2,4,7,8,10-13)と関連させて味わうと、どれも神への「贈り物」というイメージで結ばれていることに気づく。神の救いの実現を知った喜びと、まことの神への礼拝の心が贈り物に凝縮されているのである。福音書が記す「黄金、乳香、没薬」(マタイ2・11)に関しては教父たちによりさまざまに解釈されたが、いずれにしても、救いの実現に対する旧約の約束と新約におけるその成就の対応が意味深く、そこにこそ、第2朗読箇所(エフェソ3・2、3b、5-6)でいわれる神の「秘められた計画」(3節)の啓示がある。 さらに、公現の福音朗読と絵画を合わせて鑑賞する上で、重要になるのは、学者たちが「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」(マタイ2・11)という一節である。マタイ福音書にとって「共におられる」がこの福音書全体を貫く重要なキーワードであることがよく指摘される。イエスの誕生の予告の中で「その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言が引用され、この名が「神は我々と共におられる」という意味であると解説されている(1・23)。また、末尾では、復活したイエスが弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・20)と告げる。このように、マタイはイエスを「我々と共におられる方」とあかししているが、そのイエスがこの東方の学者たちの礼拝の場面では「マリアと共におられた」のである。 神に選ばれ、救い主が生まれ、育つ座として、その生涯の同伴者として選ばれたマリアが救いの恵みを受けた人類すなわち、神の召命を受けた「教会の典型、もっとも輝かしい模範」(『教会憲章』53)であるとすれば、この幼子のうちに「諸民族の光」(同1)である救い主の現れを悟った、異邦人の学者たち(王たち)は、救われるべきすべての民の象徴である。このようにして、神の救いの恵みが我々人類とともにある、という神秘(救いの計画)の深さと広がりを示す三王礼拝である。 全世界、全人類の上に、幼子となって生まれた主の栄光が輝き、万民が主を礼拝するようになる、……救いの普遍的な現れ(エピファニア)を祝う「主の公現」の祭日の喜びと希望は、現代における普遍的な救いへの切実に希求にも目を向けさせようとしている。この絵の背景の景色は現代の戦地にもつながっているはずである。 |