| 2026年3月1日 四旬節第2主日 (紫) |
これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け (マタイ17・5より)主の変容 挿絵 ケルンで作られた朗読福音書 1250年頃 主の変容を描く13世紀の朗読福音書挿絵である。四旬節第2主日には、毎年、福音朗読において、イエスの変容の箇所が読まれる。A年の今年はマタイ福音書17章1-9節である。イエスは三人の弟子を連れて高い山に登る(1節参照)。すると「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)――この挿絵でも「高い山」を意味する岩の上にイエスが立っている。その内衣には白さの表現があるが、外衣は高貴な身分の者、主権者の装いとして深紅になっている。イエスの主としての尊厳がこの変容の出来事において現れたことのしるしだろう。右手のしぐさもまさにそのような権威を示すものである。 マタイは変容の時「見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」(3節)と述べる。変容の図でも必ず描かれるこの二人だが、この絵ではどちらがだれかわからない。ほとんど同じ容貌である。ここにモーセとエリヤが登場することについてはさまざまな意味合いがある。モーセもエリヤも広い意味で預言者、神のことばをあずかり、民を指導する使命にあった。イエスはその使命をも引き受けつつ、本来はそれをさらに凌駕する。「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた」(5節)と述べられるとおりである。 他方、モーセとエリヤの二人とも40日という象徴的な数字に関係する。モーセは、荒れ野の試練のあとイスラエルの民に再び十戒が授けられる前に、ホレブの山に上り、契約の板を受け取る前に40日40夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった(申命記9・9参照)。エリヤもホレブで主に会う前に、み使いに助けられながら、40日40夜歩き続けてようやく主のみ前に臨む(列王記上19・8前後参照)。モーセもエリヤも主に出会うために試練を受けた人物であった。彼らの40日40夜は、先週四旬節第1主日の福音朗読箇所に述べられるイエスの40日の試みの前表(予型)であり、今、我々にとっての試練と回心の時である「四旬節」の意味を告げている。 このイエス、モーセ、エリヤ三者の背景が金色で塗り込められているところがとりわけ印象深い。イエスの変容は、神の栄光の現れにほかならない。そして、イエスの身体からはこの栄光の放射がモーセとエリヤ、そして下にいる3人の弟子たちに及んでいる。マタイは「ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネ」(1節)と記すが、絵でも彼らの見分けはつく。(向かって)右側の白髪・白髭の男がペトロ、左端がヤコブ、真ん中の髭のない若い男がヨハネである。他の変容図では、3人の姿勢に違いをつけて描くものも多いが、ここでは3人とも少し身をかがめつつ山上のイエスを仰いでいる。そこには、畏怖のニュアンスも込められている。この3人、そして、モーセとエリヤの全員の視線すべてがイエスに集中しているところに、主であるイエスの独特な尊厳が強調されている。 ちなみに、「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた」(5節)というマタイの叙述を反映する表現要素(イエスの頭上に神の右の手を描くような例)は見られない。このイエスの姿のうちに、神のひとり子であることがすでに意味として含まれているのだろう。モーセ、エリヤ、三人の弟子たちの視線の表現は、同時にこの出来事を通して響きわたる父である神の声を拝聴する姿勢をも示していると考えるべきだろう。 このように、すべての人物の変容のイエスに畏怖と崇拝、そして、神のことばへの拝聴の姿勢が重なり合って、この画面全体がいわば聖なる緊張感に包まれている。このような雰囲気のヒントになるのがマタイに記される「起きなさい。恐れることはない」(7節)というイエスのことばであろう。マタイでは、この「恐れることはない」が28章の復活の叙述にも登場する。墓に詣でた二人の女性に天使が「恐れることはない。……」と語りかける。そして、復活のことを弟子たちに伝えようと走っていく女性たちに現れたイエスは「恐れることはない…」と告げる。変容の場面での「恐れることはない」は、この復活のときの「恐れることはない」に明らかにつながっていく。変容は受難予告(マタイ16・21-28)に続く出来事として、イエスの死と復活の予示する意味合いがあるからである。 もちろん、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声はイエスの宣教活動の始まりに位置する洗礼の出来事をも想起させる(マタイ3・17参照)。洗礼に始まるイエスの宣教の生涯、その終幕(死と復活)の中間にこの変容の出来事があり、弟子たちに対する「これに聞け」という召命の呼びかけがいっそう強くなっているのである。四旬節第2主日の全体としてのメッセージの柱がこの召命にあることは明らかである。第一朗読箇所である創世記12章1-4a節はまさしくアブラム(アブラハム)への神からの召命そのものであり、第二朗読箇所のニテモテ書1章8b -10節でも、「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです」(二テモテ1・9)と述べられている。 このような三つの聖書朗読を絵とともに味わいながら、神から我々に向けられている“栄光の放射線”ともいえる神の恵みに満ちた招きの声に、心を向けていこう。 |