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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長・日本カトリック神学院教授 石井祥裕)
2026年6月28日 年間第13主日 A年 (緑)
わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る (マタイ10・39より)

十字架のイエス 
サン・ゼーノ教会の青銅扉浮彫
イタリア ヴェローナ 11-12世紀

 表紙絵に掲げられているのは、イタリア、ヴェローナのサン・ゼーノ教会における青銅扉の浮彫の中の、イエスの遺体が十字架から取り降ろされる場面を描く作品である。マタイ福音書では、27章59節にアリマタヤのヨセフが受け取るところが述べられている。同時に、ここでは兵士が一人描かれており、また十字架の左右の端には、ヨハネ19章26-27節を踏まえて磔刑図の定型要素となるマリア(向かって左端)、使徒ヨハネ(右端)が描れている。
 十字架の横木の上の部分には、太陽(向かって左)と月(右)が天使の姿と重ね合わされて描かれている。太陽と月も、マタイ福音書27章456節(マルコ15・33-34、ルカ23・44-46も参照)が述べるように、イエスの死のときに「全地が暗く」なったことを踏まえた伝統的定型要素である。ここに天使の姿が重ねられているのは、この作品の特徴で、ここに、イエスの死が同時に復活(栄光化)を意味することの表現が意図されているのかもしれない。
 イエスの冠に注目したい。いばらの冠(マタイ27・29参照)ではなく、実際に中世の王を彷彿とさせる立派な冠が載せられている。これは、実際にイエスがまことの王であること、主として治める方であることの表現であろう。イエスの身体の描き方も、傷つき、力なく屈曲したかたちではなく、まっすぐ、身体を伸ばし、その両手も横に開かれ、それがあたかもすべての人に祝福を注ぐ姿にも見える。その死のうちに、すでに主キリストが治める時と世界が誕生している、そのような瞬間の描写のように感じられてくるのである。
 イエスの十字架に注目する作品を掲げたのは、もちろん、きょうの福音朗読箇所(マタイ10・37-42)におけるイエスのメッセージ「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(38節)にちなんでいる。このことばにおいては、実際は、「自分の十字架」とは何かを意味するのかを、とりわけ我々自身への問いかけとして考える必要がある。イエスと同様に、苦しみを受けてという意味は、すぐに考えられるが、イエスの十字架は、その深みにおいて、聖書が語る救いの歴史全体を背景にして、神からいのちを受けた人類が罪に陥ったのち、今、イエスの死によってあがなわれるというプロセスを象徴していることを考えると、「自分の十字架」の意味合いにも、もっと大きな内容を考えなくてはならないと感じさせられる。自分が生きている現実の歴史に神の導き、キリストの存在、自分たちの信仰がどのようにかかわっていくか、そのかかわりをもって、イエスに従う者となるように、と呼び招かれているのである。ここでの「担う」(あるいは「背負う」)という意味は、とても深く、イエスの使命を共有し、それを自らの決意をもって担うということになるのである。そのように考えるとき、続く福音のことば「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10・39)が意味深く響いてくる。
 この内容と直結するのが、第二朗読箇所のローマ書6章3-4節、8-11節である。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じています」(8節)と。
 きょうの福音朗読箇所の前半は、このように第二朗読の箇所とつながりが強いが、第一朗読箇所(列王記下4・8-11、14-16a)は、むしろ、福音朗読箇所の後半に関連しているようである。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」(マタイ10・40)というメッセージにおける「受け入れる」という主題に関する旧約の前例にあたるからである。預言者エリシャを「聖なる神の人」(列王下4・9)と気づいて受け入れた裕福な婦人に、彼女が願う男の子の誕生が約束される(16節a参照)というエピソードだからである。
 キリスト者の信仰が周りから受け入れられていく道の未来を予告するものであるが、このエピソードから連想されるのは、勿論、マタイ福音書におけるヨセフへの天使のお告げ「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」(マタイ1・21)である。ヨセフはこのお告げを夢で受け、マリアを受け入れ、自分の上に展開されている神の救いの計画を受け入れる。
 十字架のモチーフに戻ると、自分の十字架を担ってイエスに従うことが意味する、神の救いの計画の受け入れと信頼は、言い換えれば、家族への愛よりも優先される(幅員朗読箇所のマタイ10・37参照)神への愛の実行にほかならない。そして、神のみ旨を受け入れてそれに従う人を、さらに受け入れる人の広がりこそが神の救いの計画が目指すことであり、まさにそれが福音宣教である、という教えも浮かび上がってくる。
 このことがミサの交わりの儀に凝縮されていることにも目を向けよう。互いに受け入れ合う平和のあいさつと聖体拝領におけるキリストとの一致(キリストのいのちに生きる者となること)がいつも伝えてくれていることでもある。
 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(A年)●典礼暦に沿って』年間第13主日

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