| 2026年10月4日 年間第27主日 A年 (緑) |
すべてを治める神よ、あなたの目を注いで、またこのぶどうの木を顧みてください。 (詩編80・15 答唱詩編より)ぶどうの収穫 床モザイク 中部パレスチナ テル・エル・フツンの遺跡 中部パレスチナ、ガリラヤ湖の南25キロにある「テル・エル・フツン」(テル・エル・ヒスンとも記される)にあるイスラム教のモスクの下に、ビザンティン時代の教会の遺跡、さらにその下に古代エジプト人の神殿の遺跡が発見されている。そこの床に描かれているのが表紙絵に掲げたモザイクで、ぶどうの収穫にいそしむ農夫、収穫された実りを納めるかごを中心に、ぶどうが勢いよく実る様子が描かれている。「テル・エル・フツン」は、今日の地名で、聖書ではベト・シェアン(またはベト・シャン)という名で登場する。古代イスラエルの民のカナン入国の際にはマナセ族の領土に属していた(ヨシュア17・11、士師記1・27)。商業的にも軍事的にも重要な町で、ヘレニズム時代からはスキタイ人の町になり、「スキトポリス」と呼ばれるようになる(二マカバイ12・29参照)。 きょうの第一朗読箇所であるイザヤ書5章1-7節に登場する「ぶどう畑」や「ぶどう」というイスラエルの民をたとえて語るイメージや、福音朗読箇所マタイ21章33-43節の「ぶどう園」をめぐるたとえ話にちなむものであるが、このA年、マタイ福音書からの朗読では、「ぶどう園」をモチーフにしたたとえ話が続く。年間第25主日は、マタイ20章1-16節(ぶどう園の労働者のたとえ)、第26主日はマタイ21章28-32節(二人の息子のたとえ)、そして、きょうの第27主日は21章33節-43節(ぶどう園と農夫のたとえ)である。 きょうの箇所の33節に言及される「ぶどう園」は神の民を、「農夫たち」(民の指導者たち)のことを意味している。ぶどう園には「収穫の時」が近づく(34節参照)。その収穫を受けとるために、主人は僕(しもべ)たちを派遣する。しかし、彼らは僕たちにひどい仕打ちを受け(35節参照)、もっと多くの僕たちを送っても同じだった(36節参照)。そこで最後に主人は自分の息子を送るが、ぶどう園の外に放り出され殺されてしまう(39節参照)。 明らかにこれは、神の御子イエスの使命とその受難、そして復活までも暗示するたとえになっている。たとえ話を語る相手である祭司長や民の長老たちとの対話のあと、イエスが引用する「『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」(42節)がそれを示す。これは、直接には詩編 118の22-23節であり、使徒たちの宣教においては、イエスの復活を告げることばとして解釈され、告知されている(使徒言行録4・11、一ペトロ2・7参照)。復活徹夜祭の答唱詩編、復活の主日・日中のミサの答唱詩編として親しまれているものである。このような、たとえ話の編集の仕方は、マタイ福音書独特で(並行箇所マルコ12・1-12、ルカ20・9-19参照)、イエスの受難と復活の予告であるという意味合いを強く押し出している。神がぶどう園(神の民)のために派遣した息子は、旧約の民からは捨てられたが、新約の神の民の源となっていくという、救いの歴史の一大転換を語っているのである。 このように救いの歴史、神と神の民のかかわりの歴史を「ぶどう園」や「ぶどう畑」のイメージで語る預言の伝統を踏まえると福音朗読の味わいも深くなる。とくにきょうの第1朗読箇所イザヤ書5章1-7節は、聖書における「ぶどう畑」のたとえのもつメッセージ性をよく物語っている。よいぶどうの実は神の民の中で、神のみ旨に叶う生き方をした信仰の人、すっぱいぶどうは神の愛にこたえなかった人のイメージとなる(イザヤのほかに、ホセア10・1、エレミヤ2・21、8・13、12・10なども参照)。 きょうの答唱詩編〔詩編80〕も端的にイスラエルの民を「ぶどうの木」にたとえ、エジプトを脱出してカナンの地に入ったことをぶどうの木の移し替えとしている。この伝統が、イエスの教えと生涯を通して、諸民族、万人をも意味するイメージになっていく。ヨハネ福音書15章1-10節における「ぶどうの木」の教えはその極みであろう。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(5節)「わたしの愛にとどまりなさい」(9節)……と。 きょうの第1朗読も福音も、神のみ旨にこたえられない者への戒めの印象が強いが、その源には、神を求める者は神の平和によって守られるというメッセージ(第二朗読箇所 フィリピ4・6-9参照)が響いている。そのような信頼を端的に語る答唱詩編のことば「すべてを治める神よ、あなたの目を注いで、またこのぶどうの木を顧みてください。あなたがご自分で植えられた苗と、強められた若枝を守ってください」(詩編80・15-16 典礼訳)――この願いのうちにきょうのミサの祈りが集約されている。 |