| 2026年11月1日 諸聖人 (白) |
数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、……(黙示録7・9より)小羊として描かれるキリストと諸聖人 バンベルク黙示録 バンベルク国立図書館 11世紀 11世紀初頭に製作され、ドイツ、バンベルクの司教座聖堂に寄贈されたヨハネによる黙示録の聖書写本に掲げられた挿絵の一つである。オットー朝を代表する写本芸術といわれるもの。 表紙絵の場面は、きょうの第一朗読箇所である黙示録7章2-4、9-14節に含まれる9節の「……大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って」という文脈にちなむものと考えられる。ここでの白い衣を着けた人々とは、殉教者を意味すると考えられ、白い衣は復活のキリストの栄光にあずかる殉教者の栄光を示す。朗読箇所末尾の14節で「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と、その意味合いが説かれているとおりである。 そうした人々が、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まっている」(9節)というところに、キリスト(小羊)を賛美し、礼拝する神の民の多様性と一致が、比喩のうちに暗示されている。聖人と呼ばれる人々の最初は殉教者であったことの記憶と、それ以来、神の民の信仰をあかしした無数の聖人を思い起こす諸聖人の祭日にふさわしい第一朗読箇所であり、その絵である。 この「諸聖人」の祭日が主日にあたるのは、2020年以来でもあるので、この祭日の歴史や意味について振り返っておきたい。諸聖人の祭日の原語は、すべての聖人の祭日という意味である。かつての日本語で「万聖節」と訳されていたように、固有の祝日や記念日をもって祝われる聖人のほかにも無数にいるすべての聖人を記念して祝う祭日である。 この祭日のために選ばれている福音朗読箇所であるマタイ5章1-12a節はいわゆる山上の説教で、「心の貧しい人々は、幸いである……」とイエスが告げ始める有名な箇所である。この福音が告げられることの意味を考えていくと、「聖人」「聖なる人」ということについても、理解や考えが広がっていくように思われる。 教会において「聖」という称号を付されて記念され、敬われるようになった最初の人々は、殉教者(信仰に殉じて命をささげた人)であり、その人と深い関係のある地域の教会で自然と崇敬が発生していった。キリスト教が公認された後、殉教者にちなむ大聖堂が建設され、巡礼が発展し,教会暦が各地域(教区)で整えられるなかで、その人の殉教日が祝日や記念日として記載されていく。 このような経過の中で中世初期の9世紀頃から、ある人を聖人として崇敬することに対する公式認可という手続きが設けられ、その認可権は教皇にあるという了解が確立されていく。近世になると、トリエント公会議後の1588年に、礼部聖省が設立されて列福列聖の手続きが整備されていく。第2バチカン公会議後は、「列聖聖省」が設立(1969年)、「列聖省」へと改称(1988年)されて現在に至る。列福、列聖されると、当該の人は「福者」あるいは「聖人」として崇敬が公式に認可され、祝日または記念日を設定される。このような関連の中での「聖人」は、いわば狭義の聖人というべきだろう。 なぜなら「聖」という言葉は、もっと深い意味と広い意味がある。深い意味とは厳密には父と子と聖霊にしかいわれ得ない在り方を言うものである。「聖なる、聖なる、聖なる神」と感謝の賛歌で歌うにように、である。広い意味では、キリストに結ばれ、三位の神のいのちにあずかるようになったキリスト信者はすべて、すなわち新約の神の民すべては聖なる存在である。パウロの手紙の中では、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」ということが絶えず挨拶の中で記されているように、「聖なる者となった」人、信者はだれもが「聖」であり、「聖人」である。父・子・聖霊の名による洗礼を受けてキリストに結ばれた者、聖霊を受けている者ということを「聖なる者となった」人だからである。それは、きょうの第二朗読であるヨハネの第一の手紙3章1-3節で、「わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(1節)で語られていることと同じである。 このような「聖なる者」「聖なる人」とは、本来、全信者にまで広がりがあることを考えることを、この諸聖人の祭日の福音朗読箇所、イエスの山上の説教を見ると、ここで「幸いである」と宣言されている人々の広がりがもっと広いことに気づかれる。「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」――それは初代教会だけでなく、神の民の歴史すべてにいるすべての信仰者の存在と生き方を浮かび上がらせる。 第2バチカン公会議の『教会憲章』は第5章に「教会における聖性への普遍的召命について」という章がある。すべての人が神によって神の聖性にあずかるものとなるよう呼び招かれていることをテーマとして、「神の民としての教会」という教会理解を聖性への召命という観点から述べるところである。「聖なる」ことは、決して聖職者や修道者(奉献生活者)だけに、また殉教者や歴史上崇敬が公認された狭義の「聖人」だけに限られない。諸聖人の祭日は、すべての人に及ぶ神の愛と招きを我々一人ひとりが自分の中に気づくとともに、信者仲間そして、キリストを知らないすべての人の中にも見いだしていくための日でもある。いわば「聖性への普遍的召命」を祝う祭日である。 |