| 2026年11月8日 年間第32主日 A年 (緑) |
花婿だ。迎えに出なさい (マタイ25・6より)「十人の乙女」 手彩色銅版画 原田陽子(大阪高松大司教区) きょうの表紙絵は、原田陽子さんの作品。華やかな色彩によって、十人のおとめのたとえが表現されている。きょうの福音朗読箇所マタイ25章1-13節にちなむ作品である。 たとえの順序どおりの展開を三段の絵が描いている。天の国(神の国)をイエスはまず、「十人のおととめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」(25・1)にたとえられると言う。ここでのおとめたちは花嫁の友人たちで、婚宴の場を照らし、またその存在によっても場を華やかにして、お祝いの雰囲気を盛り上げる役目をもたされている。この十人についての最初の言及が、上段の絵で描かれるわけである。たとえの主人公を紹介するタイトル画の役割をしている。ただ、この十人をよく見ると、ともし火を持っているおとめとそうでないおとめが交互に並んでいる。その意味では、話の顛末(てんまつ)までを含んでいるタイトル画とも言える。 ここから話は展開する。イエスは「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」(2節)という。このような愚かなおとめたちと、賢いおとめたちの対比が中段の絵に描かれる。(向かって)左側の五人のおとめたちは、油を用意している(4節参照)が、それでも花婿が遅れために眠り込んでしまっている(5節参照)。(向かって)右側の五人のおとめたちも同じように眠っているが、彼女たちは油を用意していないということも描かれている。画面の左端におとめたちに声をかけている人(あるいは天使)が描かれている。これが「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」(7節)にあたる。 そのあとの愚かなおとめたちと賢いおとめたちの会話の経過は略されて、その顛末として、「花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り」(10節)というところが、下段のメインの図になっている。(向かって)右側の奥のほうに、油を買いに行っている五人の愚かなおとめたちの姿が描かれているが、婚宴の場の明るさに対して非常に暗い。「戸が閉められた」(10節)の結果は、神の国に入れなかった、いわば絶対の闇に置かれてしまっていることの表現であろう。華やかな色彩もここでは失せてしまっている。たとえが語ろうとしている意味合い、絵はまさしく明るさと暗さ、華やかさと色のない荒涼さの対比によってクローズアップされ、そこがとても味わい深い。 たとえ話では、戸が閉められたその後で、「ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた」(11-12節)とある。ここでは、準備していなかったことの結果の恐ろしさが強調され、花婿の到着が意味する神の国の到来に向けて、「目を覚ましていなさい」(13節)というイエス自身のメッセージを浮かび上がらせる。その到来の時は人間には知られず(「その日、その時を知らないのだから」13節)、あくまで神の意志のうちにある。その神のみ旨がどのように繰り広げられていくか、そのことに自らをゆだね、心を沿わせていく態度がこのマタイ福音書終盤の教えで繰り返されていく。 マタイ24章で語られ始める、人の子(イエス自身)が終末に来臨することについての予告の教えに一貫しているのは、目を覚まして用意していなさいというメッセージである。「その日、その時は、だれも知らない」(マタイ24・36)、「だから、目を覚ましていなさい」(24・42)、「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(24・44)。これら24章37-44節は、実は、A年のマタイを読み始める最初の待降節第1主日の福音朗読箇所にほかならない。A年の典礼暦年の最初のメッセージと終盤のメッセージが一つに重なってくるのである。そして、この終えは、来週年間第33主日の福音朗読箇所マタイ25章14-30節の「タラントン」のたとえ、そして、年間最後の主日「王であるキリスト」の祭日の福音朗読箇所マタイ25章31-46節のすべての民族を裁くという教えを通しても貫かれている。 福音書で展開される神の国の福音は、弟子にも人々にも、この御国のために仕える覚悟、その準備、心構え、決断を呼びかけるものである。そこにはいつくしみに満ちた祝福の呼びかけもあれば、心を向けない者への厳しい眼差しも示される。回心を求める神の眼差しとそのことばの力を、イエスのたとえはよく伝える。この絵が示している対比の意味合いを深く汲み取っていきたい。 |